歴史

目次

概史

「囚われのチベットの少女」解説 今枝由郎 より抜粋

チベットがアジアの歴史の舞台に登場したのは7世紀前半のことである。それから9世紀中頃までの2世紀余が、チベットの一つの黄金時代といっていいであろう。
「世界の屋根」チベットに発祥した騎馬農耕民族チベット民族は、中国の西北辺境に突如として姿を現した。開国の英主ソンツェン・ガンポ(649年没)の治世下に中国辺境の民俗を侵攻しはじめ、唐朝(618−907)にも、その初期から使節を遣わすようになった。この新興勢力を懐柔するため、唐は文成公主(公主は狭義には天子の娘を指す。しかし広義にはその血縁の子女にも応用される)をソンツェン・ガンポに嫁がせた。
(略)中国人はよくこの婚姻関係をもって、チベットがあたかも中国に統合され、同一民族になったかのように主張する。しかし実際にはこの婚姻は、当時唐朝が周辺異民族にたいしてとっていた外交政策の一環に過ぎず、これによってチベットが中国に隷属したわけでも、両民族が合体したわけでもない。(略)(8世紀にはもう一人、金城公主がチベットの王に嫁いでいる。)
その証拠に、その後ますます勢力をつけたチベットは、中国の西に一大軍事国家を形成した。この当時のチベットは中国史料では吐蕃(とばん)と呼ばれ、中国にとってもっとも強敵で、もっとも恐れられた辺境民族であった。奇しくもこの当時日本は、唐の朝廷で吐蕃と邂逅している。記録によれば、日本の遣唐使と吐蕃の使節が唐の朝廷で同席すると、日本は吐蕃の下座に坐らされたという。これは少なくとも唐の目には吐蕃の方が、日本よりも重要な、強力な国家と解されていたことを物語っている。(略)
8世紀になるとチベットはますます勢力をつけ、版図を拡大した。763年には唐の都長安を軍事占拠し、一時的ながら唐の皇帝を廃位し、新帝を擁立した。理論上はこの時点で中国の唐朝は終わり、他のいくつかの民族が打ち立てたような征服王朝__例えば元__が成立したことになる。このチベットの中国支配は数週間の短命に終わったが、もしもう少し続いていたら、その後の中国やアジアの歴史は大きく変わっていたであろう。
いずれにせよ、この当時のチベットは強力であった。西はアラブ勢力と鎬を削り、北は敦煌をはじめとする中央アジアのオアシス都市を支配し、南はヒマラヤ山脈を越えてベンガル湾まで勢力を伸ばし、東は中国の内地まで侵攻した。中国の史料は、かつて辺境の民族がこれほど栄えたことはなかった、と畏怖の念を込めて記録している。
こうして版図を広げたチベットは、各地で仏教と出遇った。これはチベットのその後の歴史を決定する宿命的な出会いであった。8世紀後半には護国寺としてのサムエ寺が建立され、国家勢力の庇護の下に仏教が栄えた。大規模な仏典翻訳事業が開始され、後のチベット仏教発展の礎が築かれた。(略)
9世紀の前半に中国とチベットの間に平和条約が結ばれた。そのときの条文は唐蕃会盟碑としてラサに現存する石碑に刻まれてるが、そこには「大チベット、大中国」とあり、両国はまったく対等に扱われている。
2世紀余にわたって繁栄した吐蕃王国は9世紀の中頃に崩壊した。この時代をチベット史の第一幕とすれば、それは軍事国家の時代であった。
続く1世紀余は、信頼できる史料がなく、チベット史の暗黒時代である。11世紀に入りチベット史の第二幕が開くと、それは仏教王国の時代であった。吐蕃王国の崩壊とともに国家の庇護を失った仏教は、一時衰えたが、その後氏族教団仏教として復興した。いくつもの宗派が現われ、その本山が各地で政治、経済、宗教の中心となった。こうして13世紀初頭のチベットは、群雄割拠ならぬ、群寺割拠の仏教の再興時代であった。
そのころモンゴル勢力が擡頭し、世界帝国を形成する勢いにあった。モンゴルの鉾先はチベットにも向けられ、軍事遠征が中央部にまで達し、チベットは未曾有の危機を迎えた。しかしサキャ派を代表するサキャ・パンディタ(1182−1251)がモンゴル朝廷に派遣され、その卓越した政治手腕のおかげでチベットはモンゴルとの戦禍を免れた。
その後モンゴルは中国を征服し、チンギス・ハンの孫クビライ(1215−1294)が世祖(在位1260−1294)として即位した。このクビライとサキャ・パンディタの甥パクパ(1235−1280)との間に、チェ・ヨン(帰依処・檀越)という特殊な関係が結ばれ、それが元時代(1271−1368)の中国・チベット関係を規定した。この関係は、パクパは皇帝の師すなわち帝師であり、皇帝クビライはパクパに帰依し、その教えを受け、その代償に皇帝は檀越(=施主)として、帝師に捧げるものを寄進するというものであった。二人の人間の個人的な関係が、パクパをチベットの代表とし、クビライを元の代表として、チベット、元の二国間関係に適応されると非常な曖昧さが生じてくる。
中国側はこの関係をもって、チベットは元の保護国となったとみなし、チベットはこの時代から中国に隷属したと主張する。しかしこの主張には無理がある。チベットと元との間には、政治的・宗教的にゆるやかな相互依存関係があったと見るのが妥当であろう。
モンゴル人による元の後を継いだ明(1368−1644)は、漢民族の王朝である。この時代はチベットはまったく中国から独立しており、明による軍事侵略といったこともなく、チベット・中国関係史の中でもっとも平穏な時代であった。
その後、今度は満州族が明を打倒し、清朝(1616−1912)を打ち立てた。今までみてきたことからも分るように、中国の歴史は決して一貫した漢民族の歴史ではなく、異民族による支配と、漢民族による支配とが交互に繰り返された複雑な歴史である。
そのころチベットでは、15、16世紀と政治的に不安定な2世紀の後、5世ダライラマのガワン・ロサン・ギャムツォ(1617−1682)が登場し、1642年にはモンゴル族の軍事勢力を背景に全チベットに覇権を樹立し、国情が安定した。現在にまで続くダライラマ政権の始まりである。5世ダライラマは清の康煕帝(在位1661−1722)と、パクパとクビライの関係に似た友好的な関係を打ち立てた。彼の治世は、古代の吐蕃王国以来の黄金時代といえる。5世ダライラマが「偉大な5世」と称されるゆえんである。
この当時チベット文化圏は、チベット本土を中心に、西はラダックから東は青海省、四川省まで、北はモンゴルから南はヒマラヤ山脈を越えてネパールの北部、インドのヒマチャル・プラデーシュ、シッキム、アナルチャル・プラデーシュ州の北部、ブータンにいたる広大な地域に広がった。チベット仏教(※)を中心にしたチベット文化は、中国、インドとならぶアジアの偉大な文化の一つである。※原文では「いわゆるラマ教とよばれる大乗仏教」とあるが、現在ラマ教という呼称はあまり使われなくなり、より使われるようになったチベット仏教の方が妥当でもあるので変えました。
清朝は、歴代中国王朝のなかでもっとも侵略的、植民地的な国家で、北方および西北方に貪欲な版図拡大を開始した。その結果、中国の領土は明の時代と比較すると倍増した。そしてその触手がチベットにも向けられた。
チベットでは6世ダライラマ(1683−1706)の正当性の問題がもつれ、政情不安定な時期を迎えた。7世ダライラマ(1708−1757)は中国とチベットの辺境地域に生まれたが、彼をチベットの首都ラサに護送すると云う名目で、中国軍はチベットに侵攻した。1720年のことである。このとき清朝はラサに「西蔵平定碑」を立て、チベットを征服したと主張した。以後20世紀初頭まで、アンバンとよばれる軍事司令官を長とする小規模な中国軍がラサに駐屯した。しかし、中国がチベットの内政に干渉することはなかった。この時期、清朝はチベットに対してゆるい宗主権のようなものを行使していたといえる。それはインドを植民地支配していたイギリスも、チベットに関して中国と交渉していることからもうかがえる。
1912年に中国最後の王朝清が滅び、中華民国が成立した。このときチベットは中国のあらゆる軛(くびき)から解き放たれ、13世ダライラマ(1876−1933)は独立を宣言し、国内の整備と近代化に努めた。しかし中国は東チベットのカム地方から侵略を始め、チベットを脅かした。
日本がチベットと始めて直接的に接触するのはこの時期である。接触といっても、国と国との大がかりなものではなく、ほんの一握りの「探検家」たちによるものであった。もっとも知られた人々としては、河口慧海、多田等観、青木文教などがあげられる。
1949年に、中国共産党がほぼ中国全土を支配し、中華人民共和国が成立した。チベットは中国の一部であると宣言し、「平和解放」の名の下に、チベットの東部カムと北部アムドを、おのおの四川省、青海省に編入し、中央チベットは西蔵自治区として中国に併合・占拠された。
1959年3月、14世ダライラマ(1935年生まれ)は、中国軍による拉致を恐れてインドに亡命し、現在に至っている。彼の後を追って、十万人近いチベット人がインドに亡命した。
その後、チベットにおける中国の残忍さは、文化大革命(1966−1977)中にその極に達し、宗教は禁じられ、国内に数千あった寺院は、いくつかを除いてすべて破壊された。こうした弾圧はその後いくぶん緩和されたとはいうものの、中国による弾圧、抑圧は現在も変わることはない。チベットに残ったチベット人も、亡命チベット人も、世界各地で中国の不当な占拠を告発し、独立運動を継続している。この連綿と続く非暴力的独立運動の指導者として、ダライラマがノーベル平和賞を授与されたことは、よく知られている。
今まで見てきた中国・チベット関係という歴史的観点からして、また第二次世界大戦後、多くの民族国家が独立したことに鑑みても、中国によるチベットの占拠は不当以外のなにものでもない。(略)チベットがチベット人のものであるというこの正当な主張が、独立運動として厳しく弾圧されているところに、チベットの悲劇がある。政治的、軍事的、経済的な面からして、格段に優位に立つ中国は、その力を盾にチベット人の人権を無視してこの占拠政策を継続している。チベット人は自らの国で囚人となっている。この絶望的な状況のなかで、チベット人は勇敢にも孤独で悲壮な闘争を続けている。

年表

ことわり

この年表は「チベット史」(ロラン・デエ著 今枝由郎訳 2005 春秋社)の年表に一部書き加えたものです。今後も引き続き項目を追加してゆくつもりで、出来ればウェブらしい何かしらの仕掛けも加えたい。

ちなみに、ネットで見かける年表と年が違っているところ(特に古い年代)があります。
これは、おそらくサイトの編集者が山口瑞鳳氏の算出した年代に因っている為で、ロラン・デエ氏の見解(あるいはフランス学会の通説)との相違だと解釈しています。
ただ、千年以上昔の数十年に拘るほどシビアなサイトではないので、取り敢えずここでは「チベット史」ロラン・デエの年表に因ることにしおきます。

◆◆◆

古代

旧石器時代上期(紀元前5万年)
最初の人間集落__ディンリ、カロ、ナム・ツォ(湖)

新石器時代(紀元前8千年)
陶器、細石器__カロ、ネウドン

鉄器時代(紀元前2千年)
青銅、墳墓、細石器__チベット高原全域

紀元前3世紀
王国、神話系譜の始まり

前127
ニャティ・ツェンポ、チベットに到着(チベットの年代計算による)

581−618
中国隋朝

7世紀初
ナムリ・ロンツェンによる統一

608−609
中国に使節派遣

帝国時代

617
ソンツェン・ガムポ誕生(チベットの年代計算による)

618−902
中国の唐朝

629
ソンツェン・ガムポ即位

630−635
シャンシュン及びチベット高原の北部征服

632
ネパールとの婚姻関係

635−640
中国西部、雲南、ビルマ、ネパール北部の征服、文字の発明

641
中国との婚姻関係(文成公主)

641−646
グンソン・グンツェンの治世

646
ソンツェン・ガムポ再登位

647
インドへの軍事遠征

650−676
マンソン・マンツェン、大臣ガルの統治

659−670
北での征服、シルクロードのオアシス、四川の各地を征服

661−750
ウマイヤ朝(インド)

667
ガル・トンツェン死、ガル・ツェンニャ・ドンプとガル・ティディンの活躍

673
最初の政府の年会議

676−703
ティ・ドゥソン、ガルの後見、敦煌への侵攻

685
ガル・ツェンニャ死

690−705
則天武后の周朝

692−787
シルクロードのオアシスを失う

696
臨洮の勝利

695−699
ガル一族の失脚、ガル・ティディンの自殺

8世紀初
チュルク人との連帯、アム川地域への侵攻

703−704
南詔の征服

704−705
ラ排斥され、ティマルはティデ・ツクツェンを皇位に就ける

705−712
ティマルの摂政期間、ネパールの反乱鎮圧

705
ウマイヤ朝の中央アジア進出、サマルカンド、次いでタシケントの攻略

710
中国との婚姻関係(金城公主)

715−730
唐・ウマイヤ朝、唐・ウイグル同盟

727−728
シルクロードの西安、玉門の攻略

730
中国との条約、パミール、カラコルム方面への侵攻

737−738
ギルギット侵略

740
ギルギットと婚姻関係

750
アッバース朝成立

751
タラスの戦いでのアラブ・テュルク軍の中国に対する勝利

755−797
ティソン・デツェン

755−763
安禄山と思史明の乱

763
ウイグルとの同盟、唐の首都長安の占領

763−783
武威と酒泉、トゥルファンとハミの占拠

770頃
仏教定着の始まり

779
サムエ寺院の建立

783
中国との和平条約

785−787
黄河沿いでの征服、敦煌の占領、中国との和平条約、唐・アッバース朝の同盟

789
ビシュバリク(北庭)とホータンの占領

794
南詔を失う、サムエ寺の仏教論争

797−(?)
ムネ・ツェンポ、政治緊張

799?ー815
ティデ・ソンツェン、別名セナレク、仏教定着

809
サマルカンド包囲、アッバース朝との和平条約

810
ギルギット失う

815ー838
ティソン・デツェン、別名レルパチェン、仏教は広まり、ボン教は弾圧される

821−823
中国との和平条約

838−842
レルパチェンの暗殺、ティ・ウドゥムツェン・ダルマ、別名ラン・ダルマ即位、仏教弾圧

842
ラン・ダルマ暗殺、帝国崩壊

848−849
敦煌失う

850頃−950頃
チベット高原南西部、北東部に小王国出現

860
ウイグル人、テュルク人によるトルキスタン征服

879
ネパールを失う

氏族仏教教団時代

960−1276
中国の北宋、南宋

978
仏教再興の始まり

1042−1054
アティーシャのチベット滞在「後伝期」

1056
カダム派の本山ラデン寺の建立

1073
サキャ派の本山サキャ寺の建立

11世紀末−12世紀末
カギュ派諸派の誕生

1158
パクモドゥ派の本山デンサ・ティル寺の建立

1175
ツェル派の本山グンタン寺の建立

1179
ディクン派の本山ディクン・ティル寺の建立

1185
タルン派の本山タルン寺の建立

1187
カルマ・カギュ派の本山ツルプ寺の建立

12世紀末
イスラム教徒によるインド北部の征服

1205
イクティヤール・ウッディーンのチベット征服失敗

1206
モンゴルでチンギス・ハン即位

1226
モンゴルによるチベット北東部の征服

1240
クデンによるチベット侵略

1244
サキャ・パンディタ、クデンの許に赴く

1249
サキャ派によるチベット支配の始まり

1253
モンゴルによる東部チベット侵略

1253−1255
ルブルクのモンゴル滞在

1255
カルマパ2世、オゴデイに受け入れられる

1260
フビライの権力掌握、チベット人によるモンゴル人保護者探し

1271−1368
フビライが中国の皇帝となり、元朝成立

1280−1281
サキャの政治問題

1285−1290
ディグン・サキャ戦争

14世紀初
ラン氏デンサ・ティルを掌握

1322
チャンチュプ・ギェルツェン万戸長となる

1332−1336
カルマパ3世、元の朝廷に赴く

1348−1358
チャンチュプ・ギェルツェンによる領土拡大、ツェル派、ディグン派、サキャ派の没落

1357
ゲルク派の開祖ツォンカパの誕生

1358
カルマパ4世、元の朝廷に迎えられる

1358−1435
ウ・ツァンにパクモドゥ派王朝成立、行政改革

1360−1363
カルマパ4世、元の朝廷に迎えられる

1364
チャプチュン・ギェルチェン死

1368−1644
元滅亡、明成立、チベットからモンゴル人の追放

1407
カルマパ5世、明の朝廷に迎えられる

1408
ゲルク派の使節、明の朝廷に赴く

1409
ガンデン寺の建立、モンラム・チュンモの開始

1416
デプン寺の建立

1419
セラ寺の建立
ツォンカパ死

1430−1450
ラン氏・リンプン家の対立

1435
パクモドゥ派、ツァンを失う、リンプン家王国

1480
カルマ・カギュ派とゲルク派の対立
トンユ・ドルジェのウ侵略

1481
パクモドゥ派、ネウドン・ツェを失う

1498−1517
シャルマパ4世の支持者によって、ラサはリンプン家の手に落ちる
シャルマパ4世が、ウ・ツァンの精神的指導者となる
モンラム・チェンモの中断

1517
ゲルク派ラサ奪還
ウにゲルク派再興
モンラム・チェンモ再開

1519
ムガル王朝(インド)

1532
イスラム教徒による西チベット侵略

1546
ツェル派の本山グンタン寺の火災

1547
タルン寺の本山タルン寺の火災

1550
アルタン・ハーン、北京を脅かす

1565
ツァンでリンプン家失墜
ツァン・デパ王国誕生

1566
モンゴル人の仏教改宗

1576
アルタン・ハーン、仏教に改宗

ダライ・ラマ時代

1578
ソナム・ギャムツォ、アルタン・ハーンに受け入れられる
ダライ・ラマの称号の創設

1588
ダライ・ラマ3世ソナム・ギャムツォ死

1589−1617
ダライ・ラマ4世ユンテン・ギャムツォ

1601
ダライ・ラマ4世即位

1605
シャルマパ6世の支持者と、ダライ・ラマ4世の支持者の間の対立
ツァン・デパ・カルマ・テンスン・ワンポがウからモンゴル人を追放

1610−1620
ドゥクパ・カギュ派の内部抗争

1616
ドゥクパ・カギュ派のブータン移住

1617−1682
ダライ・ラマ5世ンガワン・ロプサン・ギャムツォ

1618−1620
ツァン・デパとカルマ・カギュ派がラサを掌握

1620
モンゴル人とゲルク派がラサを奪還

1620−1630
モンゴル人保護者探し

1624−1652
ツァパランにカトリック宣教師

1635
アルスラン・ハン、ラサに到着
モンゴルにボグド・ゲゲン化身系譜創設

1638
ダシ・ハン、ラサに到着
カムで、ボン教・仏教の対立

1639ー1642
グシ・ハンによるチベット征服

1640−1674
パトラーマ・マッラの治世(ネパール)

1642
グシ・ハンによりダライ・ラマ5世即位
行政改革の始まり
ゲルク派の実質支配
カルマパ10世の東チベット流刑

1644−1911
満州族の清朝(中国)

1645
ポタラ宮殿の建設開始

1645−1650
ネパール人の侵攻
ネパール・チベット通商条約

1648
カルマ・カギュ派の主要寺院没収

1650
パンツェン・ラマの化身系譜創設

1653
ダライ・ラマ5世、北京訪問

1657−1676
ブータンとの国境紛争

1659
ツァンの反乱

1661
ネパールとの国境紛争
グリューバーとドルヴィル、ラサに到着

1661−1722
康煕帝の治世

1673
カルマ・カギュ派の自発的服従
その寺院の分配

1679−1684
ラダックとの戦争

1679−1703
サンギェ・ギャムツォの摂政期間

1682
ダライ・ラマ5世の死、隠蔽される

1683−1706
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャムツォ

1689
ネルチンスク条約(ロシア・清)

1690
ダライ・ラマ5世の死に関する中国の調査

1696
ダライ・ラマ5世の死の公表
康煕帝、ジュンガル部を制圧

1697
ダライ・ラマ6世の公表

1700
カムの東部に中国軍駐屯

1703
サンギェ・ギャムツォ失脚

1705
ホシュート部のラプサン・ハン、ラサ攻撃

1706
ダライ・ラマ6世、ホシュート部と康煕帝により廃位される
ダライ・ラマ6世、流刑そして死

1706−1717
傀儡ダライ・ラマ6世エシェ・ギャムツォ

1707
カプチン会士、チベットに到着

1708−1757
ダライ・ラマ7世ケルサン・ギャムツォ

1716−1745
イエズス会士、カプチン会士、ラサに到着

1717ー1720
モンゴル・ジュンガル部のラサ支配
ポタラ宮殿の略奪

1718
中国軍の殺戮

1720
ポラネとカンチェネ、ラサ解放
チベット・中国の協力
ダライ・ラマ7世の即位

1721
政府の改革

1724
アムド、青海省に編入

1727
キャフタ条約(ロシア・清)

1727−1728
内乱

1728
ポラネ、チベットを支配
ダライ・ラマ7世、カムに流刑
満州皇帝の代理(アンバン)駐在
東部カム、チベットから行政的に切り離される

1730
ブータン侵略

1735
ダライ・ラマ7世、ラサ帰還

1735−1796
乾隆帝の治世

1740
チベット、シッキムに介入
ロシアとブリヤート人仏教徒の関係

1747
ポラネ死

1747−1750
ギュルメ・ナムギェルの治世
反中国的要求
チベット・ジュンガル同盟

1750
ギュルメ・ナムギェルの暗殺
反中国暴動

1751
乾隆帝の軍、チベットに進軍
行政改革

1757
ギェルツァプ職の設置

1758ー1804
ダライ・ラマ8世ジャンペル・ギャムツォ

1758−1759
乾隆帝、トルキスタン征服

1764
ブリヤートにバンディダ・カンポの設立

1768
グルカ族、ネパール征服

1772
ブータン、コーチ・ビハール侵攻

1774
ボーグル使節、タシルンポ到着
グルカ族、シッキム侵攻

1779
パンチェン・ラマ6世、北京訪問

1780
パンチェン・ラマ6世死

1782
ターナー使節、タシルンポ到着

1788
シャマルパ10世、ネパールへ旅立つ
グルカ族のチベット侵攻

1789
休戦

1791
第二次グルカ侵攻
乾隆帝の軍、チベットに進軍
シャルマパ10世の財産没収

1792
乾隆帝の軍、ネパールに侵攻
シャルマパ10世死、その化身系譜の禁止

1793
「二十九条」協定実施
実質上の清朝の保護領

1794
南の国境の画定

1796−1814
中国での反乱

1798−1816
インド・イギリス、イギリス・ネパール戦争

1806−1815
ダライ・ラマ9世ルントク・ギャムツォ

1808ー1809
東チベットの反乱

1811
マニング、ラサ到着

1816−1837
ダライ・ラマ10世ツルティム・ギャムツォ

1816
イギリス・ネパール間のセガウリ条約

1819−1844
ツェモンリン・ンガワン・ジャンペル・ツルティムの摂政期間

1830
ポヲ戦争の始まり

1831
税制大改革

1834
ドグラ族のラダック侵攻

1838
ポヲ戦争の終結

1838−1856
ダライ・ラマ11世ケドゥプ・ギャムツォ

1839
アヘン戦争の開始(中国)

1841
ドグラ族の侵入

1842
チベット軍、ラダック侵攻
ラダック・チベット条約
南京条約(中国)

1844
政府危機、摂政の排斥

1844−1845
パンチェン・ラマ7世、摂政就任

1845−1855
ラデン・エシェ・ツルティム・ギェルツェンの第1回摂政就任

1846
ユックとガベ、ラサ到着
グラーブ・シン、カシミールのマハーラジャとなる(インド)
ラホール条約、イギリス領インド、チベットと接触
ジュン・バハドゥル・ラナ権力掌握(ネパール)

1847
パリ外国宣教協会の宣教師、東チベット到着

1850
太平天国の乱(中国)

1852
チベット・カシミール通商協定

1852−1853
南部で国境問題

1854
ネパールの侵攻

1855
ネパールの侵攻、チベットの敗北
ダライ・ラマ11世、権力掌握(←要確認!)

1856
ネパール・チベット条約、チベット朝貢国となる

1856−1875
ダライ・ラマ12世ティンレ・ギャムツォ

1856−1862
ラデンの第2回摂政就任

1858
シャタ・ワンチュク・ギェルポの反対
アイグン条約(清・ロシア)
天津条約(中国)

1860−1880
イギリスの密偵(チベット)とロシアの探検隊(チベット周辺)

1861
シャタ・ワンチュク・ギェルポの投獄、ガンデン寺の蜂起
トゥムロン条約、これによりシッキムはイギリスの保護領となる

1862−1864
シャタ・ワンチュク・ギャルポの摂政期間

1863−1865
ニャロンの反乱

1864−1872
ケンラプ・ワンチュクの摂政期間

1865
ニャロン・チキャプ職の創設

1867
西トルキスタンでロシア優位

1871
ペルデン・トンドゥプ、権力侵犯を試みる
ツォンドゥ(国会)の創設

1873
ダライ・ラマ12世、権力掌握

1876−1933
ダライ・ラマ13世トゥプテン・ギャムツォ

1876
芝罘条約(中国)

1877
インド帝国

1880
カムで反キリスト教的措置

1883
ラサで反ネパール暴動

1885
マコーレー使節の失敗

1886
ビルマ協定(インド・中国)

1888
シッキム北部占領
シッキムに関する中国とイギリスの交渉

1890
チベットとシッキムの国境を制定した英清条約、コルカタで締結(カルカッタ条約)

1893
ヤートン(亜東)の開放に関する英清通商協定、ダージリンで署名(ダージリン条約)
ブリヤート・ロシア人エージェント、ドルジエフ、ラサ到着

1895
ダライ・ラマ13世、権力掌握

1898
ドルジエフ、ロシアに使節する

1899
スコット・ムラヴィエフ協定
カーゾン卿、インド総督に就任

1900
ドルジエフ、ロシアに使節する。

1901
ブリヤート・ロシア人ツィビコフ、ラサ到着
ドルジエフ、ロシアに公式使節

1902
ロシアの進出に対する日英同盟
トランスヴァール戦争の終結(イギリス)
チベットに関するロシア・中国条約の噂
イギリス軍、チベット国境に進出

1903
イギリス・チベット交渉の試み
東カムで内乱
カロン・シュルカン、ホルカン、シャタの排斥
イギリス軍、チベット侵攻

1904
日露戦争
グルの虐殺
ギャンツェ陥落
ダライ・ラマ13世、モンゴルに逃亡
イギリス・チベット条約、ラサで調印(ラサ条約)

1905
中国による東カム併合政策
中国による最初の改革、バタン(巴塘)の反乱
ダライ・ラマとロシアの接触
カムの反乱
カムのキリスト教神父の虐殺
趙爾豊によるカム弾圧の始まり
サムペリン包囲
カーゾン卿の辞任

1906
サムペリンの虐殺
ドルジエフ、ロシアに使節する
パンチェン・ラマ9世、インド訪問
カロン・サルジュン、インド訪問
チベットに関する英清条約(北京条約)
イギリスはチベットへの内政不干渉を約束
チベットにおける中国による改革の始まり
趙爾豊、国境弁務官

1907
趙爾豊の規則、中国によるカム植民地化の始まり
中国のチベットに対する宗主権を承認するイギリスとロシアの条約、サンクトペテルブルグで調印(英露条約)
シュルカン、ホルカン、シャタ、シロンに任命される
西康省設立案(第一回)

1908
趙爾豊、ラサのアンバン、西康知事
英清、コルカタで1893年の通商協定を再確認。
ダライ・ラマ13世、五台山訪問、西欧の外交官との最初の接触
ダライ・ラマ北京訪問

1909
カム、趙爾豊に服従
ダライ・ラマ13世、ラサに戻る

1910
中国軍、ラサに進軍
ダライ・ラマ13世、インドに亡命、ダージリンに逗留
趙爾豊、ブラフマプトラ川まで進出
ニャロン・チキャプの追放
ラサで内閣改造

1911
趙爾豊、四川総督
チベット抵抗運動の地下組織
中国で共和制革命、チベットに波及
趙爾豊死

1912
ラサで中国共和国成立声明
寺院の反乱
チベット侵略挫折
西康省設立案(第二回)
ダライ・ラマ13世、ラサに戻る

1913
中国人追放、独立宣言
改革(軍、財政、行政)
チベット・モンゴル相互承認条約

1914
シムラでの交渉
サラエボの暗殺
シムラ条約
ツァロン・シャベの昇進

1915
軍事化政策
ダルツェンド条約
軍閥時代(中国)

1917
ロシア革命
中国、北カムを攻撃

1918
チベットの勝利、ロンバツァ協定

1919
アムリットサルの虐殺(インド)
北京交渉
五・四運動(中国)
イギリス・チベット提携、近代化

1920
中国使節、ラサ到着

1920−1921
ベル使節、ラサ到着
外国人排斥、保守運動
財政改革、パンチェン・ラマ9世逃亡

1922
チベット使節、北京到着
ラサに電力
モンゴル人民共和国誕生

1925−1926
政治的自閉、イギリスと決裂
寵臣ルンシャルとクンペラの昇進

1928
蒋介石、中国支配

1929−1930
中国使節、ラサ到着
パンチェン・ラマ9世、中国から栄誉を賜る

1930
ベリ・デルゲ戦争の始まり
西康省設立

1931
ルンシャル失脚
クンペラ、権力の座に、ダプシ・レクンの設立

1932
ドンダク・マガルの創設
風習の近代化
カムでケルサン・ツェリンが分離運動を起こす
中国・チベット休戦、長江を国境に制定

1933
ダライ・ラマ13世死

1934
クンペラの追放
ラデン・ジャンペル・エシェ、摂政就任
ポムダ(・ツァン)の反乱
黄慕松使節、ラサ到着
「幸福連合」の結成、ルンシャルの逮捕

1934−1935
長征

1935
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャムツォ生まれる

1937
パンチェン・ラマ9世、亡命先で死亡
中日戦争

1938
シロン・ランデュンと摂政ラデンの対立
西康第四回設立
パンチェン・ラマ10世生まれる
アメリカ、中国に抗日援助

1939
ヨーロッパ、戦争に突入
シロン・ランデュンの辞任
カロン・テトンの辞任
西チベット改革党の設立

1940
ダライ・ラマ14世、ラサ到着
ラサに中国の公式な代表部設立

1941
キュンラムの排斥
摂政ラデンの辞任
タクダ・リンポチェ、摂政就任
アメリカ参戦

1942
チベット経由の中国補給路開設の交渉

1943
トルストイとドランのアメリカ使節

1944
税制改革

1945
近代化の試み
セラ寺の反乱
ラデンの陰謀準備

1946
ラル・ツェワン・ドルジェに対する襲撃
西チベット改革党の陰謀挫折
連合国への祝賀使節
憲法制定議会の開催(中国)
ニューデリーの汎アジア会議にチベット代表出席

1947
摂政タクダ・リンポチェに対する間接的襲撃
ラデン逮捕、内乱
インド独立

1947−1949
通商使節(インド、アメリカ、ヨーロッパ)
インドから武器購入

1949
中華人民共和国成立
インド・ブータン条約
中国人民解放軍、西康侵略、チャムド占領

亡命時代

1950
「チベット解放」の宣言
朝鮮戦争
チベット侵略の開始
中国「義勇兵」、朝鮮に進攻
ダライ・ラマ14世、ヤートン(亜東)に逃れる
国連への訴え
ダライ・ラマ14世、予定を早めて即位
ネパールの政治紛争

1950−1957
道路建設(ラサから四川、青海、新彊に向けて)

1951
チャムド情勢に関して、北京で交渉
「チベット平和解放十七か条協定」調印
ダライ・ラマ14世、ラサに戻る
人民解放軍、ラサ進駐
カムでの抵抗、国民防衛義勇軍の結成

1952
チベットの集中的植民化開始
反宗教政策
ネパールでクーデターの試み
チベット軍区の創設
ミマン・ツォンドゥ運動の創設
ンガプー・ンガワン・ジクメの積極的協力

1953
ネパールに対するチベットの年貢終了
朝鮮戦争終結

1954
中国新憲法
農業改革
中印通商協定、チベットは「中国の一部」と認定

1954−1955
ダライ・ラマ14世とパンチェン・ラマ10世、中国に赴き、毛沢東と会見

1954−1974
カム反乱、「二十年戦争」の開始
CIAの抵抗運動者への援助「ガーデン作戦」

1956
チベット自治区準備委員会発足
ネパール・中国友好通商条約

1956−1957
ダライ・ラマ14世、インド訪問

1958
「大躍進」(中国)
チベットの原子力化開始
僧侶に対する弾圧
チュシ・ガンドゥク(「四江六山」)軍結成

1959
ラサの反乱、ダライ・ラマ14世インド亡命、十七か条協定破棄を宣言
パンチェン・ラマ10世、チベット自治区準備委員会委員長
国際法曹家委員会の準備、中国による大虐殺の責任を告発
チベットからの亡命者、インドに到着
中国、アクサイ・チンを主張
中国のチベット政策に関する国連の決議

1959−1960
亡命政府の組織
チベットの最初の改革
抵抗運動、ムスタン(ネパール)に拠点を構える

1961
国連の第二回決議

1960−1963
ネパール・中国、国境合意
中国・ソビエト関係の緊張、そして決裂
カトマンドゥ・ラサ道路の建設

1961
暫定憲法案

1962
中国・インド国境紛争(NEFA、アクサイ・チン)

1963
暫定憲法制定

1964
ネパール・中国通商条約
パンチェン・ラマ10世逮捕
ネルー死
中国最初の原爆

1965
チベット自治区成立
土地共有化
国連の第三回決議

1966
文化大革命始まる
破壊、拷問、人口移動

1969
土地共有化の徹底

1970年代
僧侶、アジア、西欧に定住

1971
アメリカ・中国の接近
ニクソン大統領、毛沢東と会談

1972
CIAの抵抗運動者に対する支援打切り

1974
ムスタン(ネパール)での抵抗運動の終焉

1975
相対的自由化

1976
毛沢東死、文化大革命終了

1978
寺院再建開始
パンチェン・ラマ10世、名誉回復、チベット自治区の副委員長に再選

1979
第一次亡命者使節、チベッチ自治区を訪問
フランス大統領ジスカール=デスタン、チベット訪問
ソビエトのアフガニスタン介入

1980
胡耀邦、チベット訪問
中庸な改革

1985
ゴルバチョフ、ソビエト最高会議議長に就任

1987
ソビエト自由化宣言
ダライ・ラマ14世、ワシントンで「平和五項目案」演説
チベットで反乱と弾圧
ヨーロッパ議会、中国弾劾の決議
ドイツのコール首相、チベット訪問

1988
ダライ・ラマ14世、ヨーロッパ議会で「ストラスブール声明」
チベットで反乱と弾圧

1989
パンチェン・ラマ10世死
暴動
戒厳令、ヨーロッパ議会の弾劾
胡耀邦死
天安門事件
中国全土で再び弾圧政策
ダライ・ラマ14世、ノーベル平和賞受賞
ラサで反乱
ベルリンの壁崩壊

1991
国際チベット年
ブッシュ大統領、ダライ・ラマ14世と会談
ダライ・ラマ14世、民主主義諸国の政府と公式会見
ワルシャワ条約解消
旧ソビエト連邦の諸民族、中央アジアに共和国として独立

1992−1995
単発的な反乱、弾圧
李鵬政府の内政硬化
パンチェン・ラマ11世、拉致、行方不明

1996
ラサで暴動
チベットでの人権問題に関するドイツ・中国間の外交問題

1997
鄧小平死

1998
国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソン、チベット訪問

2008
チベット動乱

参考にした年表
「チベット史」ロラン・デエ著今枝由郎訳 2005 春秋社 年表p.383 – 406
「チベット 下 改訂版」山口瑞鳳 2004 東京大学出版会 年表p.xiv-xx

資料

独立宣言(1913年)

輝かしいインドの主ブッダの命令によってその称号を授けられた、最も聡明な仏教信仰の保持者、我がダライ・ラマは、以下のごとく告ぐ。
あらゆる階層のチベット人に告ぐ。輝かしいインドの主ブッダは、最初の法王から現在まで、一連の指導者を介して観音菩薩の化身がチベットの幸福を見守って下さると予言された。
モンゴルのチンギス・ハン、アルタン・ハーン、中国の明、満洲の清の時代、チベットと中国は「宗教者・保護者」の関係に基づいて協調した。数年前、四川と雲南の中国当局は我が国を植民地化しようとした。市場を守るためという名目で、大量の軍をチベットに導入した。それゆえ我は、ラサを離れ、大臣とともにインド・チベット国境に赴いた。満州皇帝に電報で、チベットと中国の関係は「宗教者・保護者」の関係であり、一方が他方に隷属する関係ではないとはっきり伝えた。中国軍が、生死を問わず我を捕らえようとして追跡して来たので、国境を越えざるを得なかった。
インドに着いて、皇帝に何通か電報を打ったが、北京の腐敗した役人のせいで我の要求に対する皇帝の返事は遅れた。この間に、満洲帝国は崩壊した。チベット人は中央チベットから中国人を追放するように奨励された。我も恙(つつが)なく我の正当にして聖なる国に戻り、東チベットのアムドとカムから中国兵を追放しているところである。今や、「宗教者・保護者」の関係に基づいてチベットを植民地化しようとする中国の意図は、虹のように虚空に消えた。再び幸福と平和を取り戻した今、なんじら一人一人は怠ることなく、次の義務を果たすように。
(一) この世の平和と幸福は仏教信仰抜きには維持できない。それゆえに、ラサのジョカン、ラモチェ、南チベットのサムエ、タドゥク、そして三大寺院(セラ、ガンデン、デプン)といった寺院を維持することは必須である。
(二) チベット人のもろもろの宗派は、純粋な独自の形で保存されねばならない。仏教は正しく教えられ、学習され、瞑想されなければならない。特別な例外を除いて、寺院の管理者は商売をしたり、金を貸したり、家畜の取引をしたり、他人の召使いを規制したりしてはならない。
(三) チベット政府の民官、軍官は、税金を集めたり、国民と接する時、国民の利益を害することなく、政府の益となるように、公正で正直な判断でもって任務を果たすべきである。西チベットのンガリ・コルスム、東チベットのアムド、カムの役人は、国民に高価のものを買わせたり、政府によって許可された以上の荷物の運搬を課する。国民の家、所有物、土地がささいな法律違反の口実で没収される。さらには、罰則として国民の四肢切断が行われる。以後、こうした厳しい処罰は禁止する。
(四) チベットは自然資源が豊かな国である。しかし、他の国のように科学が進歩していない。我々は小さな、宗教的な、独立国である。世界の他の国々のレベルにチベットを保つのには、我々は国を防御しなくてはならない。過去の外国からの侵略に鑑み、我が国民はいくらかの困難に直面することであろうが、大したことではない。独立を守り、維持するために、各人は一生懸命働かねばならない。国境地帯に住む国民は、警戒し、疑わしいことがあったら、特別使者で政府に通報するように。国民は、ささいなことで大事を起こしてはならない。
(五) 人口は少ないが、チベットは偉大な国である。役人と土地所有者の中には、自分は耕作できないのに、他人が空き地を耕作するのを嫉妬して阻止するものがいる。こうした心がけのものは、国家及び進歩の敵である。今後、誰一人として、空き地の開墾を邪魔してはならない。三年間は無税とする。それ以後は国家と土地所有者に小作料の割合で税金を払う。土地は耕作者の者(原文侭)である。
我の告げたことをすべて達成した時、政府及び国民に対するなんじらの義務は果たされたことになる。この告示はチベットの全地区に発送され、公示されねばならない。そして一通は各地方の役所に保管するように。

ポタラ宮
ダライ・ラマの印

(「チベット史」ロラン・デェ著今枝由郎訳 春秋社 付録p375-377より転載)

十七か条協定(1951年)

中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協約
(十七か条協定)── 1951年5月23日
「中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議」
(「新華月報」第四巻第二期、p271-272)
チベット民族は中国領土内において悠久の歴史をもつ民族の一つであり、その他多くの民族と同じく、偉大な祖国の創造と発展の過程において、自己の光栄ある責任を果たしてきた。しかし最近、百余年来、帝国主義は中国に侵入した。したがって、彼らはまたチベット地区にも侵入し、各種の欺瞞と挑発を進めた。国民党反動政府はチベット民族に対し、それ以前の反動政府と同様、引き続きその民族的圧迫と民族離間の政策を採り、それによってチベット民族の内部に分裂と不団結を生ぜしめた。そしてチベット地方政府は帝国主義の欺瞞と挑発に反対せず、偉大な祖国に対して、非愛国主義的な態度をとった。これらの状況はチベット民族とチベット人民を奴隷化と苦痛の探淵に落とし入れていた。1949年、中国人民解放戦争は全国的範囲で基本的勝利をかちとり、各民族共同の内部の敵、国民党反動政府を打倒し、各民族共同の外部の敵──帝国主義侵略勢力を駆逐した。この基礎の上に、中華人民共和国と中央人民政府が成立を宣言した。中央人民政府は、中国人民政治協商会議が通過させた共同綱額に基づき、中華人民共和国領土内の各民族が一律に平等であり、団結して相互援助を行い、帝国主義と各民族内部の人民の共同の敵に反対し、中華人民共和国を各民族が友愛によって合作する大家庭とすることを宣言した。中華人民共和国各民族の大家族においては、各少数民族の集居する地区で民族の区域自治が実行され、各少数民族が等しくその自己の言語文字を発展させ、その風俗習慣および宗教信仰を保持あるいは改革する自由を持った。中央人民政府は、各少数民族がその政治・経済および文化・教育を発展させる建設事業を援助した。これ以後、国内各民族は、チベットおよび台湾区域をのぞいていずれもすでに解放をかちとった。中央人民政府の統一的指導のもと、各少数民族はいずれもすでに民族平等の権利を充分に享受し、かつすでに民族の地方的自治を実行し、あるいはまさに実行しつつある。帝国主義侵略勢力のチベットにおける影響を順調に一掃して、中華人民共和国の領土と主権の統一を完成し、国防を維持し、チベット民族とチベット人民に解放をかちとらせ、中華人民共和国の大家庭に戻らせて、国内のその他の各民族と同じく、民族平等の権利を享受させ、その政治・経済・文化教育の事業を発展させるため、中央人民政府は人民解放軍にチベット進軍を命令した際、チベット地方政府に、代表を中央に派遣して交渉を行い、チベット平和解放の方法に関する協約の締結を便利ならしめるようにと通知した。一九五一年四月下旬、チベット地方政府の全権代表は北京に到着した。中央人民政府は直ちに全権代表を指名し、チベット地方政府の全権代表と友好的基礎のうえに交渉を行った。交渉の結果、双方は本協約を成立させることに同意し、かつこれを実行に移すことを保証した。
第一条
チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。
第二条
チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する。
第三条
中国人民政治協商会議共同綱額の民族政策に基づき、中央人民政府の統一的指導のもと、チベット人民は民族区域自治を実行する権利を有する。
第四条
チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。
第五条
パンチェン・ラマ(エルデニ)の固有の地位および職権は維持されるべきである。
第六条
ダライ・ラマ、およびパンチェン・エルデニ[=パンチェン・ラマ。エルデニは満州語でトゥルク(化身)を指す]の固有の地位および職権とは、ダライ・ラマ十三世及びパンチェン・エルデニ九世が互いに友好関係にあった時期の地位及び職権を指す。
第七条
中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。
第八条
チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民共和国国防武装兵力の一部とする。
第九条
チベットの実際状況に基づき、チベット民族の言語、文字およぴ学校教育を逐次発展させる。
第十条
チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。
第十一条
チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する。
第十二条
過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義及び国民党との関係を断固離脱し、破壊と反抗を行わない限り、そのまま職にあってよく、過去は問わない。
第十三条
チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引きは公正にし、人民の針二今糸一本といえども取らない。
第十四条
中央人民政府は、チベット地区のいっさいの渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、及び領土主権の相互尊重という基礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる。
第十五条
本協約の施行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会及び軍区司令部を設立する。中央人民政府が派遣する人員以外に、できるだけチベット地方の人員を吸収して工作に参加させる。
軍政委員会に参加するチベット地方の人員には、チベット地方政府及び各地区・各主要寺廟の愛国分子を含むことができ、中央人民政府が指定する代表と関係各方面が協議して名簿を提出し、中央人民政府に任命を申請する。
第十六条
軍政委員会、軍区司令部、及びチベット進駐人民解放軍の所要経費は、中央人民政府が支給する。チベット地方政府は、人民解放軍の食糧及びその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする。
第十七条
本協約は署名捺印ののち、直ちに効力を発する。

中央人民政府全権代表   主席代表  李 維 漢(署名捺印)
代表  張 経 武(署名捺印)
張 国 華(署名捺印)
孫 志 遠(署名捺印)
チベット地方政府全権代表 首席代表   アボ・アワン・ジグメ(署名捺印)
代表 ケメイ・ソナム・ワンデイ(署名捺印)
トゥプテン・タンダル(署名捺印)
トゥプテン・レクムン(署名捺印)
サンポ・テンジン・トンドゥプ(署名捺印)

1951年5月23日 北京にて

(ダライ・ラマ『チベットわが祖国』(木村肥佐生訳)中央公論 1989年より。一部変更)

(「チベット史」ロラン・デェ著今枝由郎訳 春秋社 付録p378-382より転載)

註:私(はぶ)の判断でチベット人名の表記を変更(漢字ルビ付→カタカナ)し、一部の数字も横書きでの判読を考慮して算用数字に変更しました。

歴代皇帝&ダライ・ラマ&パンチェン・ラマ

古代皇統表

神話時代
ニャティ・ツェンポ
天の七ティ
虚空の二テン
地の六レク
八デ
五ツェン
ティニェン・スンツェン
ドナン・デウ
タディ・ナンシク
ナムリ・ソンツェン

帝国時代
ソンツェン・ガムポ
(在位617−650)
マンソン・マンツェン (在位650−676)
ドゥソン (在位676−704)
ティマル、摂政 (在位705−712)
ティデ・ツクツェン、別名メ・アクツォム (在位704−755)
ティソン・デツェン (在位755−797)
ムネ・ツェンポ (在位797− ? )
ティデ・ソンツェン、別名セナレク (在位799?−815)
ティツク・デツェン、別名レルパチェン (在位815−838)
ティ・ウドゥムツェン、別名ラン・ダルマ (在位838−842)

歴代ダライ・ラマ

1ゲンデュン・ドゥプ 1391−1474
2ゲンドゥン・ギャムツォ 1475−1542
3ソナム・ギャムツォ(最初の称号保持者) 1543−1588
4ユンテン・ギャムツォ 1589−1617
5ンガワン・ロプサン・ギャムツォ 1617−1682
6ツァンヤン・ギャムツォ 1683−1706
7ケルサン・ギャムツォ 1708−1757
8ジャムペル・ギャムツォ 1758−1804
9ルントク・ギャムツォ 1806−1815
10ツルティム・ギャムツォ 1816−1837
11ケドゥプ・ギャムツォ 1838−1856
12ティンレ・ギャムツォ 1856−1875
13トゥプテン・ギャムツォ 1876−1933
14テンジン・ギャムツォ 1935−

歴代パンチェン・ラマ

1ケドゥプ・ゲレク・ペルサンポ 1385−1438
2ソナム・チョクラン 1438−1505
3ロプサン・トンドゥプ 1505−1568
4ロプサン・チョキ・ギェルツェン(最初の称号保持者) 1570−1662
5ロプサン・エシェ 1663−1737
6ロプサン・ペルデン・エシェ 1737−1780
7ロプサン・テンペ・ニマ 1781−1854
8チョキ・タクパ・テンペ・ワンチュク 1854−1882
9チョキ・ニマ 1882−1937
10ロプサン・チョキ・ギェルツェン 1938−1989
11ギェルツェン・ノルプ 1989−
*中国側:ゲンデゥン・チョキ・ニマ 1990−

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