宗教

チベットの五つの精神文化

“CHÖ YANG”より イェーシェー・ラモ訳

この論文はダライラマのノーベル賞受賞を記念する「ザ・イヤー・オブ・チベット」記念号として、ダライラマ政府発行の文化誌『 チョーヤン ( CHÖ YANG )』に発表されたものである。(中沢新一氏の解説より)

※季刊誌「仏教」no.26 p.64-133より転載

目次

仏教四派とボン教(ポン教)の歴史

伝説によるとチベットは慈悲の菩薩、観音の地である。

チベットの人々の遠い祖先は観音菩薩の化身である類人猿とターラ菩薩の化身である羅刹女の結婚から生まれ、その子孫がヤルルン渓谷(古代王朝発祥の地)のチベット人になったと言われている。

初期のチベットの国家には支配者と名のつくものは存在しなかった。紀元前127年頃、伝説によるとルパティという名のインドの王がマハーバーラタ(古代インドの英雄叙事詩)にも記された戦いで敗走し、ヒマラヤを越えてヤルルン渓谷に到ったとされている。ルパティはそこで12人のボン教の賢者によって王として推戴され(彼らはルパティを天の子であると信じた)、ニャーティ・ツェンポという名前が与えられた。この時からチベットの民は人と自然が相互に依存しているという考えに基づく、独特でシンプルな文明を展開させてきたのである。仏教が伝来する前、チベットにはボン教と名付けられる土着の宗教と文化が存在してた。仏教徒の接触を通じて劇的に変容したものの、ボン教の一部は現在に至るまでなお、チベットの亡命社会のなかに息づいている。

仏教はチベットの国家宗教となるまでには少し時間を要した。紀元173年、王ラ・トトリニェンツェンの統治期に仏教は始めて導入され、諸仏教王(ソンツェン・ガンポ、ティソンデツェン)の努力によって次第にチベトに同化、普及してゆき、ついにはチベットの生活様式に組み入れられていったのである。ソンツェン・ガンポ王は13歳で王座につくと、ラサにトゥルナン寺とラモチェ寺の二寺を建立し、大臣トンミ・サンポータをインドに派遣してサンスクリット語と書法を学ばせ、当時インドで用いられていた文字体系の一つをモデルにしてチベット文字を作成させた。そして、インドからクマラ阿闍梨やバラモン僧シャンカラらを、ネパールからはシーラマンジュを招聘し、彼らは仏典をサンスクリット語からチベット語へ翻訳し布教を開始した。この時点では、仏教の教義を広く深く研究することは行われていなかったものの、王は主に聖観音の教えに関する予言を多くの有縁の人々に授けていた。

ティソンデツェン王の統治期に僧院長シャーンタラクシタ、阿闍梨サドマサンバヴァらがチベットに招聘され、仏教は情熱的にチベットに広められた。仏教翻訳事業は精力的かつ熱狂的に行われ、108人のインド人学僧がチベットの翻訳家とともに従事していた。また、彼らはチベトにおける僧院建立事業にも関係していたと言われている。

ティソンデツェンから三代の後に現れたティ・レルパチェンという仏教王は、「一人の僧は七世帯に養われるべきである」との勅命を発し、同時に、数千の寺院を建立した。一方で王は阿闍梨ジナミトラ、スーレンドラボディ、ダーナシーラら、さらに多くのインドの賢者を招聘した。ダーナシーラはチベットの翻訳家イェーシェーデらと協力し、規格化された語彙集に基づいて、それまで一貫した方針で翻訳されてはいなかった翻訳文献を改訂する作業を行った。このような過程を通じて仏教の教えはいっそうチベットのすみずみにまで伝搬することになったのである。しかし「法王の統治」として知られるこの黄金時代は不幸にもすぐに終わりを告げることとなる。レルパチェンの後継者ランダルマ王は仏教を奉じることをよしとせず、僧院から僧を放逐し、還俗させて軍隊に入れた。そして、チベットの古代帝国が瓦解して小国に分裂していくにつれ、チベットの仏教文化も暗黒時代に突入していったのである。

しかし、その時、シャーンタラクシタの建立した僧院の系譜に連なるマル・シャキャイェーシェー、ユゲジュン、ツァン・ラプセルらは命からがらチベットのドメー地域(北東チベット)に逃れ、そこで二人の中国僧の助けをうけて(受戒を行うには具足戒を受けた僧が最低5人は必要である)、ラチェン・ゴンパ・ラプセルに具足戒を授けた。受戒の伝統が断絶していたチベットにおいて、これはチベットの僧院共同体の復興を象徴するできごととなった。同様にサドゥパーラらが上ガリ地方(西チベット)に到り、また、カシュミールの大学僧、シャーキャシュリーが中央チベットに来たことにともなって、僧院の系譜はすばらしく拡充し、僧院共同体も増加していった。ゴンパ・ラプセルやルメイその他によって戒を授かった人々の中から、中央チベットに戻って仏教の復興にあたり、寺院を建立し協議を説くものが現れた。

しかし仏教の最大の復興は西チベットから興った。西チベットの王ララマ・イェーシェーウーは過去の仏教王のやり方にならって、若く優秀なチベット人を当時仏教学のセンターとして繁栄していたカシュミールに派遣した。そのなかから現れた大翻訳家リンチェン・サンポ(958-1055)と彼の同僚レクペーシェーラプはチベットに戻り、翻訳、講説、寺院建立などの諸活動を通じて仏教を広めた。さらに、ララマ・イェーシェーウーが自らの命とひきかえに集めた金塊によって、インドの大学僧アティーシャがチベットに招聘された。アティーシャは仏教の教義をチベットにおいて復興し、さらに当時ひろまっていた教義のなかの誤った見解を一掃し、『悟りに向かう道を照らす灯り』(『菩提道灯論』)という著名なテクストを著した。その書が現在チベット仏教の伝統のなかで重要な位置を占める一連の「道次第」文献群(ラムリム)のパターンを設定したのである。

アティーシャの数多くの弟子のなかでも最も高名な弟子は、アティーシャの思想を整理してカーダム派の伝統を打ちたてたドムトンパである。この時代、チベットはインド仏教との交流が復活し、様々な行者の影響を受けて、チベットの教説の系譜は飛躍的に多様になっていった。そして、次第にサキャ、カギュ、ゲルクの三大新宗派が興ったのである。一方、グル・パドマサンバヴァがチベットに到着して以後チベットに伝えられた、とされる仏教はニンマ派(古派)として知られるようになった。以下にこれらのチベット仏教の四大宗派を紹介したいと思う。

チベットにおけるモンゴルの影響が増大するにつれて、いわゆる施主・応供僧関係がモンゴルの支配者とチベットのサキャ派のラマの間に成立した。そして1253年、フビライ・ハン(チンギスハンの孫)はチベット13区をサキャ派のラマであるドゴン・チューゲル・パクパに布施した。パクパの後継者は百五年の間チベットを支配し、それは1358年、サキャ派が大司従チャンチュプ・ゲルツェンにチベットの支配を譲り渡す時まで続いた。続くパグモドゥ派の支配は、リンプン派によって終止符をうたれ、リンプン派は1435年から1565年に至るまで四代にわたって、さらに1566年から1641年にはリンプン派にかわってツァン(現在のレガツェを中心とする地域)の王が三代にわたってチベットを支配したのである。

16世紀の中葉にゲルク派の勢力は躍進し、3世ダライラマ、ソナム・ギャムツォ(1543-88)はモンゴルのトメト部の長アルタン・ハンの招請に応じて1578年にモンゴルに巡錫した。この結果、モンゴルにおいて、元朝崩壊後一時衰えていた仏教が復活し、チベットには将来に向けての政治的な展望がひらけたのである。アルタン・ハンはダライラマ3世に対して智慧の大海を意味する「ダライラマ」という言葉を含む称号を献上した(このように歴史的にはダライラマという称号は3世ダライラマから始まるのであるが、ダライラマという称号のなかった1世、2世も慣行的には一貫してダライラマと呼ばれている)。4世ダライラマ、ユンテン・ギャムツォはモンゴルの家系に生を享け、教育を受けるためにチベットにわたった。1642年にグシ・ハン(モンゴルのホショト部の王)はチベットに軍隊を送り、対抗勢力を滅ぼし、チベットの聖俗の権力を偉大なる5世ダライラマ、ガワン・ロサン・ギャムツォ(1617-82)の手に布施した。5世はガンデン・ポタン政庁を創立し、それは今日もなお14世ダライラマの指導のもとに機能している。

1959年にチベットへの中国の侵略が激化したために、ダライラマ猊下はインドへ難を避けられた。猊下は亡命地において亡命政庁を設立し、そこにおいてチベットの教育、文化、居住、僧院事務、またチベットの政治問題を処理している。このようにして、チベットの文化遺産を保持することに向けて重要な一歩が踏み出されたのである。また、宗教文化会議はチベットの宗教・文化活動の支援と僧院共同体の福祉の役を担っている。

かつてチベットの三地域、ウ、ツァン、ドカム(ドトゥとドメー)には六千以上の(尼)僧院が存在した。これらのうち破壊の爪痕を免れたものはごく僅かで、大部分は中国人によって破壊された。しかし、インド、ネパール、ブータンにおける亡命チベット人社会には二百以上の(尼)僧院が復興されており、およそ六百のチベット仏教センターが、宗教、文化の中心として世界中のさまざまな国で活動を続けている。

ボン教(ポン教)

チベットの最も古い精神文化の系譜はボン教である。ボン教の文献によれば、18人の導師が永劫にわたって現れると言われており、ボン教の始祖トンパ・シェンラプは我々の今暮らしているこの劫に現れる導師とされている。彼は謎に包まれた神秘の国オルモルンリンに生まれたと言われる。その地は、伝説によるとユンドゥン・クツェク山(九卍の堆積)が聳えたつ地と描かれており、この山は多くの人によって西チベットのカイラス山とみなされている。オルモルンリンとその山の神聖性により、ボン教徒にとって逆卍と九の数字は非常に重要な意味を持つものとなっている。

トンパ・シェンラプは前世にボン教の教義を天上界において学び、教義を学び終えた時、愛の神シェンラウカルの膝下でこの世の人々を導くことを誓ったと言われている。この誓約によって彼はオルモルンリンの王子として生を享け、31歳で世捨て人となって苦行生活に入った。悲しみと苦しみの大海のなかに沈む人々を救わんがために教説を説き始め、布教のためにカイラス山域に到達した。この地はシャン・シュンの名で知られ、ボン教の教説と文化にとって歴史的に重要なセンターとなっていった。トンパ・シェンラプの生涯は、『ドドゥー』『セルミ』『シジー』の三代文献に記されている。ボン教の歴史文献によれば、はじめの二つの文献は10世紀から11世紀にかけてのいずれかの時期に地下から発掘された「埋蔵教説」であるとされている。また、三番目の文献は選ばれた人々の間で受け継がれていった「口伝の文献」に属している。

トンパ・シェンラプによって説かれた教義はそもそも二つのタイプに分類できる。一つは「四門五蔵」と総称されるタイプのもので、「白い水」という教義は秘事を、「黒い水」という教義は物語や呪術や葬送や贖罪の儀式などを扱っている。また、「ペン国」という教義は僧院内での規則や哲学的解説を含み、「神聖なる導き」という教義はもっぱら「ゾクチェン(偉大なる完成)」の教えを含んでいる。「法蔵」という教義は四門全体の本質的な側面から成り立っている。

二つめのタイプは「ボンの悟りに至る九つの乗」と総称されるもので、以下、順に説明していく。「予言の乗」と呼ばれる教義には籤卜、占星術、儀式、予知についての記述がなされている。「現象世界の乗」においては精神の肉体の宇宙についての説明がなされており、「幻乗」においては怨敵退散の呪法の詳細が説かれている。また、「生存乗」においては装備と死の儀式が説明されており、「在家信者の乗」においては人の行為全般に関する十の規律が含まれている。「僧乗」には僧院内の規則と規約が含まれており、「根源の音の乗」には高い段階まで修行の進んだ修道者が至高の悟りのマンダラと融合することが説かれており、「原初のシェン乗」には真の密呪師を求めるためのガイドラインと弟子を密呪師に結び付ける精神的責務(拘禁)が説かれている。そして最後の「究極の乗」においては「ゾクチェン」についての教義がひたすら論じられている。

「九つの乗」はさらに3種類に統合され、第一段階から第四段階までを「原因の乗」、第五段階から第八段階までを「結果の乗」、九番目の乗を「殊勝なる乗」または「偉大なる完成の乗」(「ゾクチェン」)と言う。以上述べてきた教義は200巻を超すボン教文献に記されている。ボン教文献は四つのセクションに分類することができ、それぞれ「顕教経典」「般若の教え」「密教経典」「知識」という。これらの他にボン教の聖典は儀式、芸術、工芸、論理学、医学、修辞学、物語などの分野をも扱っている。アカデミックな見地からは、ある種のニンマ派の教義との強い類似性が見られるとは言われているものの、コスモロジーを扱っている「知識」部はボン教に独特のものであり、興味深いものである。

史書は、王家が仏教の保護に乗り出すにつれてボン教は力を失い、迫害され絶滅に瀕した事情を伝えている。実際、8世紀から11世紀初頭にかけてのボン教についてはわれわれは何一つとして知ることはできない。しかしながらデンパナムカー(9世紀)やセチェン・クンガー(10世紀)など多くの真面目なボン教の信徒の努力と献身的奉仕によって、チベット古来の宗教は忘却の淵から救われ、チベット仏教と並び立って自らを再構築したのである。

11世紀以来、エルエンサカ、キカルリシン、サンリ、メンリ、ユンドゥンリンなどの諸僧院が中央チベットに設立されていき、中国のチベット侵入前には、ナンレクゴン、キュンルングルカル寺ほか、三百以上のボン教の僧院がチベットに建立されていた。これらのうちメンリ寺とユンドゥンリン寺はボン教の教義の学習と修行が行われていた大僧院大学であった。ボン教の導師、シャルツァ・タシゲルツェンは19世紀にボン教を中興し、18巻からなる彼の著作集は伝統に新しい刺激を与えた。彼の信奉者のカギャ・キュントゥル・ジクメ・ナムカは多くの弟子を指導し、ボン教ばかりかあらゆるチベットの科学に通暁させた。しかし、中国のチベッチ侵入によってボン教も他の精神文化の伝統と同様に取り返しのつかない痛手を受けたのである。

ダライラマ14世猊下と宗教文化会議の支援下に、座主ルントク・テンペーゲルツェン・リンポチェやサンゲ・テンジン師その他の老僧の努力によって、ボン教を奉じる小さな共同体はタシ・メンリリン寺をインドのヒマーチャル・プラデーシュ州のソラン近郊にある丘ドーランジに再建することに成功した。いつの頃からかこの僧院は若年層がボン教の哲学、戒律、儀式、宗教舞踏などの完璧なトレーニングを受けることができる唯一のセンターとなった。また、僧たちには文法、医学、占星術、修辞学に加えて近代教育も施されている。

これらの学習の全課程を優秀な成績で修了すると、筆記と対話の両試験によって学習能力がはかられて、ゲシェー位(ボン教の博士号)が授けられる。ゲシェーは以後は通常、講義や読み書きの教授などを通して僧院共同体に奉仕するのである。

現在、メンリ寺やユンドゥンリン寺以外に、タシタテンリン寺その他14のボン教の僧院がインドとネパールに存在している。また、ボン教の活動をより強化し、その教義を外の世界に提供していくために、ネパールに国際ボン教研究所を設立する努力も行われている。

ダライラマ猊下はボン教の伝統をはっきりと支持しており、最近もドーランジに二日間逗留され、ボン教の学僧の教育課程にたいへん感銘を受けられた。さらに猊下は1988年、サールナートにおける活仏会議での発言のなかで、チベット文化の固有の源を象徴するものとして、ボン教の伝統を保持することの重要性、チベットが独自のアイデンティティを形成するに際してボン教が大きな役割を果たしてきたことを認めることの重要性を強調された。

ニンマ派

チベット仏教のニンマ派はインドの行者パドマサンバヴァに起源している。8世紀に彼は、当時仏教の伝播を阻んでいた魔の力を調伏するためにティソンデツェン(742-797)王の招きに応じてチベットに来た。グル・リンポチェ(パドマサンバヴァの通称)は魔の力を誓約によって拘束し、仏教を保護する力に変容させた。さらに、グル・リンポチェは大菩薩シャーンタラクシタと協力してチベットにサムエ寺を建立した。サムエ寺は学問の一大センターとなり、この地において膨大なチベット仏典を織りなす多くのテキストが始めてチベット語に翻訳されたのである。

グル・リンポチェは密教経典のなかでも最高の教えを広め、特に25人の弟子に与えた。これらの最初のチベットの行者たちは超自然的な技能によって名高い。たとえば、ナムカー・ニンポは太陽の光線に駕して移動すること、カンドー・イェーシェー・ツォゲルは死者を蘇らせること、ヴァイロチャナは虚空を行くこと、カワ・ペルツェクは人の心を読むこと、ジニャーナ・クマラは神通力において名高かったのである。

同時代のインドの導師ヴィマラミトラ、ブッダグフヤ、シャーンティパと密教行者ダルマキールティもチベットに至って密教の教えを普及させた。そのため論理学と仏教哲学の学習はいまだ盛んではなかったものの、極めて秘儀性の高い密教の修行が好んで行われた。「クンチェー・ゲルポ」「ドゴンドゥ」のような密教経典と「マハー・マーヤ」文献群の教えが、ヴァイロチャナ、ニャク・ジニャーニャ・クマラ、ヌプチェン・サンゲ・イェーシェーらによって、機密裡に翻訳されていった。

グル・リンポチェは彼が示さなければならない多くの教えには、弟子たちが未だ未熟で、時期も熟していないことを知り、経巻や像や儀式の際に用いる法具などの形で数百の宝を埋蔵し、後世の人々にそれらを発掘させるために予言を残した。後に百以上の行者がこれらの宝を発掘し、それらを弟子に伝えた。そこでガラプ・ドルジェ、シュリーシンハ、グル・リンポチェ、ジニャーナ・スートラ、ヴィマラミトラらが順々に受け継いで普及させた「ゾクチェン」(偉大なる完成)の教義と結びついた埋蔵経典の教えの系譜が生まれ、これらが密教の教えとは別に、ニンマ派の教義としてチベットで知られるものとなったのである。

ニンマ派においてはすべての仏教の教えを「九つの乗物(乗)」にわける。「並の三乗」は声聞、独覚、菩薩の三乗からなり、仏陀シャカムニによって説かれた経典の教えのカテゴリーを扱っている。次の「外なる密教の三乗」は金剛薩埵によって説かれたもので、クリヤー・タントラ(心身の浄化と瞑想におけるヴィジョンの感得を目的とし、正しい身体・言語・意識<身口意>の働きをうるために修練sることに重きをおく)、ウパ・タントラ(瞑想中にあらわれる神仏との一体化を目的とし、内外の能力の開発に、より大きな重点をおく)、ヨガ・タントラ(精神と肉体の内なる活力を開発することを主に目的とする)の三乗がある。最後の「内なる密教の三乗」は普賢菩薩によって説かれたもので、マハー・ヨガ(聖なるヴィジョンと宗教的自信を通じて日常レヴェルでの感覚や執着を寂滅させる「生成のプロセス」<生起次第>という修行に第一の力点をおく)、アヌ・ヨガ(根源的覚醒を促す手段として金剛身が用いられる「完成のプロセス」<究竟次第>という修行に重点をおく)、アティ・ヨガ(生成・完成の両プロセスの相入が強調され、その修行により修行者はあらゆる日常の時間、行動、体験を超越することが可能になる)の三乗がある。(ニンマ派特有の思想「ゾクチェン」はこの最後のアティ・ヨガ乗に含まれる。)九乗のうち最初の六乗は他のチベット仏教の諸派にも見られるものである一方、最後の三乗、すなわち「内なる密教の三乗」はニンマ派にのみ存在するものである。

さまざまな派が少しずつ異なった側面からアプローチしたため「ゾクチェン」には三つの分派(心部、中部、教誡部)が発展した。心部はシュリー・シンハとヴァイロチャナの系譜に帰せられており、中部はロンデ・ドルジェ・サンパとシュリー・シンハとヴァイローチャナの系譜の帰せられている。一方、教誡部はグル・パドマサンバヴァの伝えた「心滴」文献群の教えと修道系譜に直接帰せられている。

「ゾクチェン」の教義はニンマ派の修道法に独特な形態であるが、ニンマ派の信徒ならずとも、グル・リンポチェ作成の祈願文を唱え、陰暦の毎月10日と25日を供養の日となし、3年と3ヶ月の隠遁を1人ないし複数人で行う修行は広く一般に行われているものである。

密教経典の起源を語る歴史によれば、密教経典の相承には「仏陀の密意による相承」と「持明者による相承」と「口伝による相承」という三種類の様式が存在すると言われている。まず「仏陀の密意による相承」は、原初仏普賢から生じた法身の教えに帰するものである。普賢は法身それ自身から化現した全き成就者たちの群に密教を語ったと言われている。それゆえこのレヴェルの教えは常人には及び難いものとされている。次に「持明者による相承」とは、金剛薩埵や金剛手などの報身の仏が説いた教えにあたるもので、人間界での系譜はダキニの国、ウッディヤーナのガラップドルジェに起源するものである。この系譜は彼からマンジュシュリーミトラ、シュリー・シンハ、それからグル・リンポチェ、ジニャーナ・スートラ、ヴィマラミトラ、さらにチベットでこの系譜を広めたヴァイロチャナに伝えられた。最後の「口伝による相承」と言われるものは、五仏から生じた化身によって説かれた教えにあたる。化身仏の教えはシュリー・シンハに受け継がれ、彼はグル・リンポチェにそれらを伝え、グル・リンポチェからヴィマラミトラに与えられた教えが、現在に至るまでチベットに続いている系譜の起源となったのである。

この最後の相承の様式は常人の間で広く行われているものである。前二者の系譜は高い覚醒にまで到達した「ゾクチェン」の導師たちの間に今なお存在していると言われている。

また、密教の起源として、上述の三相承に、さらに「指命されしもの、予言による相承」「宿縁、埋蔵経典による相承」「祈願、封印による相承」の三つの相承様式を加えて、六つの相承を述べる別の伝統もある。

ニンマ派の密教経典とその相承様式は「口伝によるもの」(遠伝仏説)、「埋蔵経説によるもの」(近伝埋蔵教説)、「ヴィジョンによるもの」(甚深なるヴィジョンの教説)という3グループに分類することもできる。仏説はさらに3つのカテゴリー(マハー・ヨガ文献群に属する密教経典と関連するテクストからなる仏説、アヌ・ヨガ文献群に属する偈とその注釈文献からなる仏説、最後はアティ・ヨガあるいは「ゾクチェン」文献群に属する仏説)の三つにカテゴライズできる(侭)。

埋蔵教説とは各時代の埋蔵教発掘者によって発掘された無数の文献である。この埋蔵教説は9世紀にグル・リンポチェ自身によって埋蔵されたものと、後にニンマ派の行者の覚醒した意識と瞑想中におけるヴィジョンを通じて示された数多くの教えである。数百人にのぼる埋蔵教説発掘者のうち特に著名なのは五大埋蔵教説発掘者として知られる、ニャンレル・ニマ・ウーセル(1124-92)、グル・チューワン(1212-70)、ドルジェ・リンパ(1346-1405)、ペマ・リンパ(1405年生)、ジャムヤン・ケンツェ(1820-92)である。彼らが発掘した教説には観音に関する瞑想と教えの文献群、グル・リンポチェの成就法、「ゾクチェン」の教え、「八教説」の文献群、「金剛橛」の教義を扱う文献群、医学、予言の書などがある。

以上のような教説を加えたために、ニンマ派には経部(カンギュル)、論部(テンギュル)などのスタンダードな大乗仏典以外にさらに多くの経典群が存在することとなった。これらの埋蔵教説を集めた『百万ニンマ経典』は、一切知者ロンチェン・ラプジャムパ(1308-63)が体系化したものを、埋蔵教説発掘者ラトナ・リンパ(1403-73)が15世紀に編集したものである。また、コントゥル・ユンテン・ギャムツォ(1813-99)によって編集された『宝の蔵』(60巻)他の数多くの作品や、ロンソム、トドゥプチェン、パルトゥム、ミパム他の多数の著者がニンマ派文献を豊かにすることに一役かっている。

ティンソンデツェン王の保護のもとシャーンタラクシタとグル・パドマサンバヴァによってニンマ派最古の僧院が建立されて以後、長らく大僧院が建立されることはなかった。しかし12世紀に入るとチョクパ・チャンチュプ・ゲルツェンによって中央チベットにネチュン寺が建立され、また、カ・ダムパ・デシュク(1112-92)によってカムにカトク寺が建立された。このことはニンマ派が他の宗派とは異なり、かなり後代になってから僧団化したことを示している。さらに15世紀以降には巨大な僧院大学が建立された。たとえば、中央チベットにはリクジン・テルダク・リンパ(1646-1714、別名ミンリン・テルチェン・ギュルメ・ドルジ)によって1676年にミンドルリン寺が建立され、1630年にはリクジン・ガキワンポによってドルジタク寺が建立された。そしてカム地方には、1665年にリクジン・クンサン・シェーラプによってペルユル寺が、1685年にはゾクチェン・ペマ・リクジンによってゾクチェン寺が、1735年にはシェチェン・ラプジャムパによってシェチェン寺が建立された。また、アムドにはトンドゥプチェンとダルタン両寺が建立された。

亡命先のインドの地において再建された主要な僧院として、カルナタカ州のバイラクッペにあるテクチョク・ナムドゥル・シェドゥプ・タルゲリン寺、デラドゥンのクレメンタウンにはゲドゥン・ガツァル・リン寺とエワムギュルメリン寺、ダラムサラにはネチュン・ダヤン・リン寺、ヒマーチャルプラデーシュ州のシムラにはトゥプテン・エワム・ドルジェ・タク寺などが挙げられる。

現在、ニンマ派の伝統はキャプジェ・ドゥジョム・リンポチェ(1904?ー87)を継承したディルゴ・ケンツェ・リンポツェが主宰している。他に、ミンリン・ティチェン・リンポチェ、タクルン・ツェトゥル・リンポチェ、ペノル・リンポチェなどの精神の導き手がいる。

カギュ派

チベット仏教のカギュ派の系譜には主にマルパ・チューキ・ロドゥー(1012−99)とキュポン・ネルジョル(976−1079)に始まる二つの潮流がある。前者マルパはドクミ・イェーシェー(993-1050)のもとで翻訳家として修行し、それから法を求めてインドへ3回、ネパールへ4回の旅をした。彼は108人の導師や行者のもとで学び主にナーローパ、マイトリパから教えを受けた。マルパは「幻身」「ポワ」「夢」「光明」「内なる熱」などに関しての「四相承系譜」と呼ばれるタントラの教えをナーローパから受けた。ナーローパの師匠はティーローパ(988-1069)で、その系譜は執金剛仏に起因するものである。

マルパはこれらの系譜をチベットにもたらし、それらを自らの弟子の中でも最も際だっていたミラレパ(1046-1123)に授けた。ミラレパはチべットの密教行者の中でも最も高名で、学識も深く、ただ一度の生涯で最終目的である解脱を得た人物である。ミラレパはマルパから瞑想法の系譜を委ねられ、他の弟子ゴク・チューク・ドルジェ、ツルトゥン・ワンゲ、メトン・チェンボなどは、マルパの顕教の護持者となった。以上がカギュ派の僧院内において、顕教の学系と密教の学系が成立した事情である。

ミラレパの弟子のうち最も傑出していたのは、ガムポパ(1079-1153、通称タクポ・ラジェ)とレーチュンパ(1084-1161)である。前者はミラレパから「マハー・ムドラー」と「ナーローパの六つのヨガ」を授かり、両者を一つの系譜に統合した。この系譜はタクポ・カギュ派として知られることとなり、この派を母体としてさまざまな分派が生まれた。バムポパはまたミラレパより受け継いだ「マハー・ムドラーの法」をカーダム派の「道次第」の伝統と融合させることに着手した。ガムポパの著書『解脱の宝石の飾り』はチベットの他の「道次第」文献のなかでも傑出している。カギュ派の「マハー・ムドラー」の系譜は後になって1世パンチェンラマ、ロサン・チューギ・ゲルチェン(1570-1662)によってゲルク派の伝統にも組み入れられ、「マハー・ムドラー」のガンデン・カギュ学系として知られるようになった。

タクポ・カギュ派にはガムポパの秀才の弟子たちによってさらに四大学派が打ちたてられた。シャン・ユタクパ・ツォンドゥー・タクパ(1123-93)はツェルパ・カギュ派を創始し、グンタン寺を建立して多くの学識ある弟子を育てた。彼の大ラマはワンゴム・ツルティム・ニンポである。バロム・ダルマ・ワンチュクはバロム・カギュ派を創始し、バロム寺を建立した(派の名称はこの僧院名に由来する)。パグモドゥッパ・ドルジェ・ゲルポ(1110-70)はパグモドゥ・カギュ派を創始した。彼はガムポパの主だった弟子のなかでも「マハー・ムドラー」の相承と成就において特に有名であり、彼の弟子の多くも(タクルン・タンパ、ケルテン・イェーシェー、リンレーパ・ペマ・ドルジェ、ジクテン・ゴンポ、ケルゴンパら)高いレヴェルにおける成就を果たした。パグモドゥッパはまたパグモ地方に後にデンサ・ティル寺と呼ばれるようになる僧院を建立した。パグモドゥッパの弟子たちの系譜からは多くの分岐が生じた。1世カルマパ、ドゥスム・ケンパ(1110-93)はカムツァンすなわちカルマ・カギュ派を創始した。創始者の転生者である歴代カルマパが断絶することなく続いていることなどもあって、この派の勢力は今日でも根強いものがある。歴代カルマパの間で最も著名な人物は2世カルマパ、カルマ・パクシ(1206ー82)と3世カルマパ、ランチュン・ドルジ(1284-1339)と8世カルマパ、ミキョ・ドルジ(1507-54)の三人である。*最も近世のカルマパは16世カルマパ、ランチュン・リクペー・ドルジ(1924-81)であり、亡命中にあって全カルマ派の主宰者の任に当たっていた人物である。この派の総本山ツゥルプ寺は中央チベットにある。亡命後、この派はシッキムのルムテクに同寺の指導部と主要な学童を再建した。また、同派は世界中に数百のセンターを擁している。*現在ゲルワ・カルマパ(歴代カルマパの尊称)の転生者は空位であり、前カルマパの四人の弟子、シャマル・リンポチェ、ゲルツァプ・リンポチェ、シトゥ・リンポチェ、ジャムゴン・コントゥル・リンポチェが摂政として任に当たっている。

パグモドゥ・カギュ派からは8つの分岐が生じた。ディグン・キョッパ・ジクテン・ゴンポ(1143-1217)によって創始されたディグン・カギュ派は、現在は37世ディグン・キャプゴン・チェツァン(1946ー)によって統率されている。37世は現在ラダックにある自分の僧院を座所としている。タクルン・タンパ・タシペル(1142-1210)によって創始されたタクルン・カギュ派はシッキム在住のシャブドゥン・リンポチェによって統率されている。チュージェー・ギャレ・イェーシェー・ドルジ(通称リンレーパ、1128-89)によって創始されたドゥクパ・カギュ派は、現在12世ドゥクチェン・リンポチェによって統率されており、彼はインドのダージリンに僧院を再建した。

パグモドゥ・カギュ派から分かれた八つの分枝のうち、以上の三派のみが今なお現存している。信徒の数から見るとドゥクパ・カギュ派が最も大きく、ディクン・カギュ派がそれに次ぐ。残念なことにパグモドゥッパの従兄であるリンポチェ・ゲルツァがトプ寺を建立して創始したトプ・カギュ派、マルパ・リンチェン・ロドゥーによって創始されたマルツァン・カギュ派、イェルパ・イェーシェー・ツェクによって創始されたイェル・カギュ派、チューギ・センゲによって創始されたシェクセブ・カギュ派、イェーシェー・センゲによって創始されたヤムサン・カギュ派など、これらのカギュ派の他の分派は少なくとも独立した形では存在しなくなっている。しかしカギュ派内の他派のラマが今なお彼らの教えの伝統を保持し続けている。

タクポ・カギュ派と並んでカギュ派の二大潮流の一方を形成するシャンパ・カギュ派は大行者キュンポ・ネルジョル(978-1079)によって創始された。キュンポはボン教と「ゾクチェン」の修行にはあきたらずネパールに向かい、そこで阿闍梨スマティに会った。彼はスマティから翻訳者としてのトレーニングを受けインドに向かった。そして150人の学者や行者から教えを受けて、顕密双方のすべての瞑想と教義をマスターしたと言われている。彼の主な師匠としてスカシッダ、ラフラグプダ、ニグマ、ナーローパの妻などが挙げられる。彼は人間の姿をした師匠から実践の教えを受けた以外にも、ダキニ(空行母)からの相承も受けていた。彼はチベットに戻った後、カーダム派の僧ランリ・タンパから授戒した。

そして、彼はダキニの予言によって中央チベットのイェルシャンにシャンション寺を建立した。彼の創始した派はシャンパ・カギュ派として知られるようになった。後に彼はさらに末寺を建立したと言われる。かつて、チベットにこの派に属する僧院は百以上存在していた。彼の教えを受け継いだ者のうちメフトンパ、モクチョクパ、シャン・ゴムチョ・サンゲは最も有名である。彼の系譜の中に現れるツルトン・ワンゲル・ドルジェはプトン・リンチェン・ドゥプに「グフヤサマージャ」(秘密集会タントラ)の系譜を授け、この系譜はゲルク派の創始者ツォンカパにまで相承された。

ツァンパ・カギュ派の主な修道には「マハーカーラ」(大黒天)「チャクラ・サンバラ」(勝楽タントラ)「ヘーヴァジラ」(喜金剛タントラ)、「マハー・マーヤ」(大幻)「グフヤサマージャ」「ニグマの六法」「マハー・ムドラー」に関するものがある。この派の現代の代表的人物としては、今世紀きってのカギュ派の瞑想師である故カル・リンポチェ(1905-89)があげられる。カギュ派には多くの分派があるものの、教義の基本的な特質は「マハー・ムドラー」や「ナーローの六つのヨガ」にその淵源を有している。基本的な思想に対する種々の個人的アプローチが分派という姿をとっているにすぎない。

カギュ派に独特かつ特徴的な教義は「マハー・ムドラー」である。「マハー・ムドラー」は顕密両経典の解釈に応じて、それぞれ解釈を行うことができる。「マハー・ムドラー」の顕密の両面は、心の本質を直接理解することが目的とされている。「マハー・ムドラー」へのアプローチはカギュ派諸派のなかで少しずつ異なっているものの、一般に加行、道、果のプロセスをとことん実践するものである。カギュ派の伝統に独特の修行としては「ナーローの六つのヨガ」「チャクラ・サンバラ」「マハーカーラ」が挙げられる。密教修行の文脈の中では「マハー・ムドラー」の適用はより深い洗練された意味を有することとなる。

インドの原テクストの理解を助けるために各僧院が独自のテクストと注釈を使用している点を除けば、カギュ派の僧院内において僧の教育は他のすべての宗派と同じく主に般若、中観、論理学、戒律、唯識などの研究から成り立っている。

サキャ派

サキャ派の伝統はコン一族の系譜と密接に結び付いている。コンの祖先は天上の神から生まれたと言われ、サキャ派の創始者クン・クンチョク・ゲルポ(1034-1102)から現在に至るまでその系譜は万世一系である。

教義的な観点からは、この派の起源をガーヤダラを経由してインドのヨガ行者ヴィルーパに辿ることができる。彼の弟子ドクミ・シャキャ・イェーシェー(992-1074)はインドに旅をし、「カーラチャクラ」「道果」その他の教えを多くのインドの導師から授かりチベットに戻った。後に彼の主な弟子の一人であったクン・クンチョク・ゲルポは、中央チベットのツァン地方に僧院を建立してサキャ寺(灰白色の地の寺)と命名した。そこでこの派は僧院のある地の名をとってサキャ派と呼ばれることとなった。クン・クンチョク・ゲルポの息子サチェン・クンガー・ニンポ(1092-1158)は驚くべき能力と超越的技能を得た人物であり、聖ナーガルジュナとヴィルーパの顕密すべての教えの系譜を護持していた。彼にはクンガー・バル、ソナム・ツェモ(1142-82)、ジェツン・タクパ・ゲンツェン、ペルチェンオボの四人の息子がいた。二番目の息子ソナム・ツェモは弱冠16歳にして学識豊かな学者であった。彼は瞑想中に多くの仏神のヴィジョンを得、また、多くの覚者の弟子を育てた。ジェツン・タクパ・ゲルツェン(1147-1216)は在俗の戒を護持し、若年期から強い精神の成熟性を示した。彼は11歳の時すでに「ヘーヴァジュラ」の教えを説いていたと言われる。

ジェツン・タクパ・ゲルツェンの筆頭弟子は彼の甥(ペルツェンオボの息子)の有名なサキャ・パンディタ・クンガー・ゲルツェン(1182-1251)である。

サキャ・パンディタはインド、ネパール、カシュミール、チベットの数多くの導師から仏教哲学、仏教以外の哲学、論理学、サンスクリット、修辞学、占星術、芸術を学び、それらをすべてマスターした。彼は27歳の時にカシュミールのパンディタ、シャーキャシュリーバドラに出会い、具足戒を受けて沙門となった。彼は生涯戒律に抵触することはなく、『論理学、宝の蔵』『三律儀品』などの現在もなお有名な著書を著したのである。

1244年、サキャ・パンディタはその名声からチンギス・ハンの孫、ゴダン・ハンによってモンゴルに招聘され、モンゴルで仏教を説いた。サキャ・パンディタとゴタン・ハン両者の死後、後の元朝皇帝セチェン・フビライ・ハンはサキャ・パンディタの甥、ドゴン・チューゲル・パクパを1253年に宮廷に招聘した。パクパは新しいモンゴル文字(パクパ文字)を作成した。フビライ・ハンはパクパの功績に感銘を受け、仏教をモンゴルの国家宗教として宣言し、パクパにチベット十三地域の統治権を布施した。このようにしてパクパはチベット史上始めて、全土の聖俗両権を手にした人物となったのである。パクパの後はパクパの弟チャクナが継ぎ、その後サキャ派は百年以上にわたってチベットを支配することとなったのである。

結局15人いるサキャ・パンディタの弟子のうち最年長の帝師クンロ(1299-1327)はシトク、リンチェンカン、ラカン、ドゥチョーの四王家を設立した(このうち二王家のみが現存している)。しかし15世紀にドゥチョー王家はドルマ宮、プンツォク宮の二つの小宮(王家)に分裂した。現在これらの二宮の長はインドのデラドンに在住している全サキャ派の主宰者、サキャ・ティジン・ガワン・クンガー・テクチェン・リンポチェ(1945ー)と、アメリカ合衆国でサキャ・テクチェン・チューリン寺を創設したダクチェン・リンポチェ(1929ー)である。サキャ派の主宰者の継承はクン・クンチョク・ゲルポの時代から世襲制をとっており、伝統的にはこの二つの宮殿の出身者が交互に襲位することとなっている。現サキャ・ダクティ・リンポチェはサキャ寺の41代目の座主である。

サキャ派の伝統の主な継承者のなかでも、サチェン・クンガー・ニンポ、ソナム・ツェモ、タクパ・ゲルツェン、サキャ・パンディタ・クンガー・ゲルツェン、ドゴン・チューゲル・パクパの五人は「サキャ五祖」として名高い。彼らの後に続いたのが、いわゆる「チベットの六つの飾り」(ヤクトゥク・サンゲペル、顕教の権威として名高いロントン・マワイ・センゲ、ゴルチェン・クンガー・サンポ、密教に通暁していたソンパ・クンガー・ナムゲル、コラムパ・ソナム・センゲ、顕密両者に通暁していたシャーキャ・チョクデン)であった。これらは高名なサキャ派の導師たちである。彼らのなかでもコラムパ・ソナム・センゲはサキャ派の伝統のなかに論理学の正式な学習過程を創始したことで名高い。

チベット仏教の他派と同様にサキャ派も、本山だけに限ってもたくさんの分派が生じた。ゴルチェン・クンガー・サンポ(1382-1457)が創始した規律に含まれる教えの系譜とそれを引き継いだコンチョク・ルンドゥプ、タルツェ・ナムカー・ペルサン、ドゥプカン・ペルデン・トンドゥプなどの師はゴル派として知られている。一方、ツァルの口伝の系譜と呼ばれるツァルチェン・ロセル・ギャムツォ(1502-56)の系譜は「大小マハーカーラ」「ヴァジラ・ヨーギニー」「ジャムバラ」その他の秘密の教義を含む「ツァルの黄金の十三巻経典」を奉じており、ツァル派として知られている。このようにしてコン師のサキャ派は樹幹をなし、ゴル派とツァル派はその枝葉を形成している。これらの三派はサキャ派内では「サ・ゴル・ツァル・スム」(サキャ・ゴル・ツァルの三派)と言われている。

サキャ派の中心的な教義と実践は「道果説」と呼ばれ、最終的には実習者をヘーヴァジラの状態にまで導くものである。「道果」とは顕密両者のさまざまな教説における道とその結果を一体化したものである。「道果説」はインドの導師ヴィルーパ、アヴァドゥーティ、ガーヤダラ、聖ナーガールジュナの後継者であるシャーキャミトラの間で相承され、チベット人のドクミ翻訳官によってチベットにもたらされた。「道果説」は現在に至るまで途切れることなく継承されている。ゴルチェン・クンガー・サンポの弟子、ムチェン・セムパー・チェンボ・クンチョク・ゲルチェンの時代に「道果説」の相承は二つの派(「諸弟子派」と「説衆派」)に分裂した。「道果説」に説かれる哲学的視点は輪廻と涅槃の不可分性である。この説によれば、意識は輪廻と涅槃両者の根源であるがゆえに、個人は輪廻すなわち円環の生を捨てることによっては涅槃すなわち平和を得ることことはできないのである。無明の人にとっては輪廻の形を取るが、煩悩から解脱した状態においては同じものが涅槃となり得るのである。それゆえ人が瞑想を通じて輪廻と涅槃の同一性に気付く努力をすることが真のあり方であると説く。

サキャ派の僧院大学においては18のテクストが徹底的に学習される。これらのテクストは般若、戒律、中観、唯識、論理学、認識論、さらにサキャ派の伝統に特有の注釈書(『三律儀品』『論理学、宝の蔵』などのサキャ・パンディタの著作やコラムパ・ソナム・センゲその他の著作)が用いられている。課程を修了すると僧には程度に応じてカシパ、カチュパ、ラプジャムパなどの学位が授けられる。サキャ派の主な密教の修行は「ヘーヴァジラ」「チャクラ・サンバラ」「マハーカーラ」などである。

(以下省略)

ゲルク派

ジェ・ツォンカパ(1357-1419)が創始したゲルク派の伝統は、アティーシャが創始したカーダム派の伝統から直接の刺激を受けて発展したものである。ツォンカパはアムド地方のツォンカの地に誕生し、三歳で四世カルマパ、ロルペー・ドルジから沙弥戒を受け、クンガー・ニンポという名を授かった。七歳にして彼は師チュージェー・トンドゥプ・リンチェンから出家戒を授かり、ロプサン・タクパの名を拝受した。彼は若年ではあったものの「ヘールカ」「ヤマンタカ」「ヘーヴァジュラ」の多くの教えと灌頂を受け、『文殊智勇真実名讃』のような重要教典を暗唱することができたのである。

ツォンカパは知識を求めて広く旅をし、チェンナ・チューキ・ゲルポに始まり既存のあらゆる宗派の師から教えを学んだ。ツォンカパはチェンナから「マハー・ムドラー」や菩提心のようなテーマについて教えを受け、ディグンではコンチョク・キャプから医学文献を学び、ニェタンのダワチェンにおいては『現観荘厳論』や般若思想を学び、論理学に優れ、博識で名を馳せた。彼はサキャ寺も訪れ、そこで戒律、唯識、論理学、中観、「グフヤサマージャ」をカシパ・ロセルやレンダワから学んだ。また「ナーローの六つのヨガ」「カーラチャクラ」「マハー・ムドラー」「道果」「チャクラ・サンヴァラ」ほか数々の相承も受け、それを弟子に伝えた。

彼は研究と講説に加えて、長期の瞑想修行にも没頭した。ウルカのチョルンにおいて行われた瞑想は最も長期にわたり、八人の直弟子とともに四年間を費やした。彼はまた数百万回の五体投地やマンダラ供養などの清浄行においても知られている。ツォンカパは瞑想中にしばしば神仏、特に文殊のヴィジョンを得、文殊との交流によって教えのより深い側面についての疑問を解決したのである。

ツォンカパは百人以上の師に学び、長い瞑想を行い、主に中央チベットや東部チベットにおいて数千の弟子に教えを説き、加えてきわめて多数の著作を残した。彼の全集は十八巻からなり、仏説のあらゆる側面を扱う数百の著作が収められており、顕密の経典の教えのなかでも最も難解なテーマを明快に解き明かしている。『菩提道次第広論』『秘密道次第広論』『了義未了義善説心髄』『縁起讃』『秘密集会の五次第を明らかにする灯』『金の数珠』はそのなかでも主要な作品である。彼の主な弟子のなかでは、ゲルツァプ・ダルマリンチェン(1364-1432)、ケドゥプ・ゲレク・ペルサンボ(1385-1438)、ゲルワ・ゲンドゥンドゥプ(1391-1474)、ジャムヤン・チュージェー・タシ・ペルテン(1379-1449)、チャムチェン・チュージェー・シャキャ・イェーシェー、ジェ・シェーラプ・センゲ、クンガー・ニンポ(1354-1435)が最も有名である。

ツォンカパはチベット暦十月二十五日に62歳で逝去した。ガンデン寺にあるツォンカパの法座はツォンカパによりゲルツァプ・ダルマリンチェンに託された。このようにして今日に至るまで続くガンデン寺座主の伝統が始まったのである。99代目のガンデン寺座主にしてゲルク派の公式の主宰者は現在イェーシェー・トンドゥプ師である*。

チベットに存在するゲルク派の大僧院のうち、ガンデン寺のみがツォンカパ自身によって建立されたものである(1409年)。ガンデン寺は二つの学堂(北頂、東頂)に分かれている。ジャムヤン・チュージェー・タシ・ペルテンは1416年にデプン寺を建立した。一時期デプン寺には七学堂が存在したが、後に四学堂(ロセルリン、ゴマン、デヤン、ガクパ)に吸収合併され、このうちデプンとゴマンの二学堂のみが現存している**。ツォンカパの精神の弟子の一人チャムチェン・チュージェー・シャキャ・イェーシェーは1419年にセラ寺を建立した。セラ寺にも最初は五学堂があったが、後にセラチェーとセラメーの二学堂に併合された。1447年に、一世ダライラマ、ゲルワ・ゲンドゥントゥプはシガツェの地にタシルンポ寺を建立した。この寺にはかつては四学堂が存在していた。タシルンポ寺の座主の座は歴代パンチェンラマによって占められている。

ギュメ(下密教学寺)はジェ・シェーラプ・センゲによって1440年に建立され、ギュト(上密教学寺)はギュチェン・クンガー・トンドゥプによって1474年に建立された。ラサ周辺の僧院大学(セラ、デプン、ガンデン)には最盛期には五千人以上の僧がおり、密教学寺にも少なくとも五百人の僧がいた。かつてはチベットのあらゆる地域から若者が雲集し、僧としての教育と精神修養を受けるためにこれらの僧院大学に入門していたのである。

ゲルク派は戒律を重視していることから窺えるように、倫理面に特に重点を置いている。宗教的教育と実践にとって理想的な基盤は倫理とみなされているからである。その結果、ゲルク派の大僧院のラマはほとんど出家した僧であり、在俗の行者はまれである。加うるに、ゲルク派では倫理学の厳しい試験を経て博士号(ゲシェー位)を得なければ、構造的な瞑想を行うことができない。顕密両経典の教えには対論法を介して論理的に厳格な分析が加えられるのである。

学習過程は一般に五大学科(般若、中観、論理学、唯識、律)に分かれている。これらの五つの学科はインドの原典とその原典にインドやチベットにおいてつけられた注釈書(しばしば僧院独自のテクスト)に基づきつつ、対論という学習方法によって十五年から二十年の間、注意深く学習が続けられる。これらの修行を終えると僧には仏教哲学の博士号とも言うべきゲシェー位(ドラムパ、ツォクラムパ、ララムパの三等級がある)が授けられる。このうち最も高位のゲシェー位はゲシェー・ララムパ位である。

ゲシェー位は、引き続き、希望により、密教学堂に入って密教を学び正式の学習を完遂するか、自分の故郷の寺に戻って講義にあたるか、あるいは、隠遁生活に入り長い瞑想修行に従事するか、などのなかからいずれかの道を選ぶことができる。ゲシェーの修練を完遂した僧は、尊敬と奉仕に値し、完全な資格を有し、かつ、権威ある精神の導き手とみなされて尊敬を受けるのである。

ゲルク派の伝統は亡命後の社会にも強く息づいている。ゲルク派の主要な僧院、セラ、デプン、ガンデン、タシルンポ、ギュメ寺などはインドのカルナタカ州のチベット人居留区に再建されており、ギュト寺はアルナチャル・プラデーシュ州のボンディラに再建されている。

*99代目の…Wikipediaによると現在のガンデン寺座主は98代目のジャンペルシェンペン。一方、この文章を掲載した雑誌は14、5年前の出版物。なのに99代目と次の代に進んでいる。理由は今のところわかりません。

**二学堂のみが現存している…セラ寺にも言えることだが、ここでの「現在」は15年以上前のことだということをお忘れなく。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。