ダライ・ラマ

目次

綴り

チベット語:ཏཱ་ལའི་བླ་མ་

ラテン文字慣用表記:Dalai Lama

ワイリー方式:taa-la’i bla-ma

あらまし

チベットの守り本尊とされる観音菩薩の化身ダライ・ラマは、チベット仏教ゲルク派の高僧で、5世以降は宗派を超えたチベット仏教最高の宗教的権威であると同時にチベットの政治上の元首を兼ねる法王(チューキ・ゲーポ)とされた。

現在のダライ・ラマは14世テンジン・ギャツォ。1959年のチベット蜂起の際にラサからインドに政治亡命し、以降はインド北部のダラムサラに居住してチベット亡命政府の国家元首とされている。

ちなみにゲルク派の最高位、すなわちゲルク派教主は、ガンデン・ティパ(ガンデン寺座主)であり、ダライ・ラマではない。

称号の由来

ダライ・ラマという称号はモンゴル人の支配者アルタン・ハーンが当時のデプン寺の座主であったソナム・ギャツォを師と仰ぎ、贈った称号である。この時の正式な称号は「ダライラマ・バズラダーリ Dalai-bla-ma bazra dhari(智慧の大海)」といった。

このように歴史的にはダライ・ラマの称号を最初にもちいたのはソナム・ギャツォであるが、慣行的に彼を3世として、1世はツォンカパの弟子ゲンドゥン・ドゥプパとされている。

また第2世ゲンドゥン・ギャツォ以来、歴代の法名に襲名されている「ギャツォ」はチベット語で「海」を意味し、モンゴル語の「ダライ(大海)」と対応する。

呼称

標準チベット語(ラサ方言)では「ターレーラーマ」と発音する。ただし、チベットでは対外的文書などに用いられるに過ぎず、チベット人自身の間では敬称として「ギャルワ(またはギャワ、ラサ方言ではゲェワが近い)・リンポチェ」(法王猊下)や「クンドゥン」(陛下または猊下)などと呼ばれる。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、日本語名称は「ダライ・ラマ法王」、敬称は「猊下」(His Holiness)としている。

ちなみに、チベット人のDalai Lamaの発音は、頭のDaにアクセントをおいた「だりぃらま」と、少なくとも私の耳には聞こえる。

歴代ダライ・ラマ

1. ゲンドゥン・ドゥプパ、1391年 – 1474年 dGe-‘dun grub-pa དགེ་འདུན་གྲུབ་པ་

2. ゲンドゥン・ギャツォ、1475年 – 1542年 gGe-‘dun rgya-mtsho དགེ་འདུན་རྒྱ་མཚོ་

3. ソナム・ギャツォ、1543年 – 1588年 bSod-nams rgya-mtsho བསོད་ནམས་རྒྱ་མཚོ་

4. ユンテン・ギャツォ、1589年 – 1616年 Yon-tan rgya-mtsho ཡོན་ཏན་རྒྱ་མཚོ་

5. ロサン・ギャツォ、1617年 – 1682年 Nag-dbang blo-bzang rgya-mtsho ངག་དབང་བློ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་

6. ツァンヤン・ギャツォ、1683年 – 1706年 tshang-dbyangs rgya-mtsho ཚངས་དབྱངས་རྒྱ་མཚོ་

7. ケルサン・ギャツォ、1708年 – 1757年 bsKal-bzang rgya-mtsho བསྐལ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་

8. ジャムペル・ギャツォ、1758年 – 1804年 ‘Jam-dpal rgya-mtsho འཇམ་དཔལ་རྒྱ་མཚོ་

9. ルントク・ギャツォ、1806年 – 1815年 Lung-rtogs rgya-mtsho ལུང་རྟོགས་རྒྱ་མཚོ་

10. ツルティム・ギャツォ、1816年 – 1837年 Tshul-khrims rgya-mtsho ཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་

11. ケードゥプ・ギャツォ、1838年 – 1856年 mKhas-grub rgya-mtsho མཁས་གྲུབ་རྒྱ་མཚོ་

12. ティンレ・ギャツォ、1856年 – 1875年 ‘Phrin-las rgya-mtsho འཕྲིན་ལས་རྒྱ་མཚོ་

13. トゥプテン・ギャツォ、1876年 – 1933年 Thub-bstan rgya-mtsho ཐུབ་བསྟན་རྒྱ་མཚོ་

14. テンジン・ギャツォ、1935年 – 現在 bsTan-‘dzin rgya-mtsho བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་

1世ゲンドゥン・ドゥプパはゲルク派の開祖ツォンカパの直弟子で、それから4世ユンテン・ギャツォまでのダライ・ラマはチベットと周辺地域で広く尊敬を集めた学僧であった。

しかし5世ガワン・ロサン・ギャッツォ(1617-1682)は、偉大な学僧であっただけでなく、モンゴルの豪族グーシ・ハーンの後ろ盾を得て1642年に政教両面でチベットの最高指導者となり、「ンガパ・チェンポ(偉大なる五世)」と呼ばれた。

以来、歴代ダライ・ラマは、チベット第一の都市であるラサを政治基盤とし、ゲルク派序列第一位の僧侶であると同時にチベット全域の政教両面の最高指導者であり続けてきた。

ちなみに、5世はグシ・ハーンからチベット中枢部を寄進され、その統治機関を座主を勤めていたデプン寺のガンデンポタン(兜卒宮)に設置(1642年)した。これが現在の亡命政府に連なるチベット政府の誕生である。そして1660年に完成したポタラ宮に移転してからもガンデンポタンの名が使われ、正式名称「ガンデンポタン・チョーレーナムギャル(諸方に勝利せるガンデンポタン)」。

現在の亡命政府の正式な英語名はCentral Tibetan Administration ( CTA )である。

転生制

観自在菩薩(観音菩薩)は、悟りの境地を得ながらも自らのために涅槃を求めず、人々を救済するため輪廻世界に生まれ変わるとチベット仏教では信じられている。

歴代のダライ・ラマはその化身とされ、たとえ死んでも生まれ変わる(転生する)とされてきた。

ダライ・ラマが没すると、僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。そして予言を基に子供を探しだし、誕生時の特徴や幼少時のくせなどを予言と照合して候補者を選定する。

更にその候補者が本当の化身かどうかを見極めるために追試験をする。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、先代ゆかりの方に愛着を示したり、あるいはその品物で先代が行っていたのと同様の特徴ある行動をしたりなど、明らかな確信を得ることができれば、その子供はダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。

認定された転生者は幼いうちから直ちに法王継承の儀式を受けるが、この段階ではあくまで宗教的権威に留まる。

成人に達すると(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、初めて政治的地位を持つこととなる。尚、先代の遷化(死亡)から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と一切の政務を代行することになる。

19世紀以降、ダライ・ラマの転生者の捜索は清朝政府を巻き込んだチベット貴族の勢力争いの舞台となり、恣意的な人選が横行し、摂政となった有力貴族の一族が実権を握った。その為か、この時期のダライ・ラマの多くが政治的実権を握る成人前後に死を迎えている(歴代の表の9~12世とその他との年齢差に注目)。

ダライ・ラマ14世

第14代ダライ・ラマ。
1935年7月6日(チベット暦5月6日)生まれ。
1940年即位。
法名:テンジン・ギャツォ(བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་; Bstan-‘dzin Rgya-mtsho)。

ダライ・ラマ14世は、チベット人社会における聖俗両面での最高指導者である。チベット亡命政府ガンデンポタンの長であり、またチベット仏教の教派を超越した宗教指導者でもある。
チベット仏教ゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ高僧として、チベット仏教の全宗派の伝統の教えを継承し研鑚を積んでおり、教え・実践両面のすべての領域における最高の権威者(チューキ・ゲーポ;法王)として広く認められている。
1989年ノーベル平和賞
2006年9月9日カナダ名誉市民
2009年6月7日パリ名誉市民
名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)

来歴

転生

幼名ラモ・トンドゥプ(Lha-mo Don-‘grub)。「願いを叶えてくれる女神」という意味である。
彼は1935年7月6日にアムド(北チベット)にある小村タクツェルの農家に9人目の子供として生まれた。
生家の生活は質素であったが幸福に満ち足りていた。貴族階級でも大地主でもなく、かといって小作人でもなく、わずかな土地をひとに貸してはいたが自分たちでも土地を耕し家畜を飼う、チベットではありふれた小農だった。
長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められてクムブム寺で修行をしていた。他にも18歳年上の姉チェリン・ドルマなどがいた。
ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベット政府が派遣した捜索隊がクムブム僧院にやってきたのは、彼が2歳にならんとしていた頃である。
「ご先代様」(13世)は1933年に亡くなる少し前から既に転生先についての暗示を残していたとされている。そして遷化(死亡)後も幾つかの不思議な現象が起った。たとえば、
夏離宮ノルブリンカの宝座に南向きに安坐された遺体が、数日後に気がつくと顔を東に向けていた。
その部屋の東北の柱に突然星形の大きなキノコが生えた。
ラサの東北の空に奇妙な形の雲が現れた。
これらは明らかに捜索隊の進むべき方向を示していると考えられる。しかしながら、チベット仏教の理論上49日間以内とされる転生が時として数年を要する場合もあり、それ以上の手がかりを得るまで二年が過ぎた。
その二年後の1935年、タクツェルで童子が生まれたその年に、摂政レティンは聖湖ラモイ・ラツォ(Lhamoi Latso)へ行き、そこでビジョンを得たのである。
ラモイ・ラツォは、ラサの東約145キロのチョコ・ギャルという地にあり、パルディン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿る聖なる湖(Blatso)である。水面に将来の様々な状況を見ることができるとチベット人に信じられ、他にも多数存在する同様の聖湖の中で最も有名であり、ダライ・ラマのみならず多くの転生者がこの湖の「予言」によって見つかている。
摂政レティンが得たビジョンは湖面に浮かび上がったAh、Ka、Maのチベット文字、続いてターコイズブルーの瓦と金色の屋根の三階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている景色、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家であった。僧は”Ah”は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。
“Ka”の文字はクムブムのKにちがいないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見し、その読みが正しかったと確信したという。
捜索隊は付近の村を探しまわり、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた。そしてその家には誕生日を間近に控えた2歳の童子が暮らしていたのである。
いくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、その童子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。
捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだ、という。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという。

※この辺りの話は、法王の自叙伝「チベットわが祖国」やハラーの「チベットの七年」(映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」の原作)にわりと詳しい記述がある。

1939年の夏、ラサに向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに3か月かけて移動し、夏の離宮ノルブリンカに入る。
1940年の冬、ポタラ宮殿に移動してチベットの精神的指導者の座に正式に就き、ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた。また、一つ上の兄ロブサン・サムテンとともに読み書きの勉強やお経の授業も開始し、さらに、精神的(宗教的)指導者としての教育と同時に、世俗的指導者としての教育も受け始めた。
そういった時間以外はその年齢の子供らしく活発に遊んで過ごし、8歳からは兄ロブサンの私立学校入学を機に一人で教育を受けるようになる。
姉と一緒に過ごし、ロブサンや母が時々通ってくる、という生活を送る。毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した。
少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中のひとりハインリッヒ・ハラー*を兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。

※ハラーがナチス親衛隊であったとこで法王14世を批難する人もいるが、当時の世界やチベットの状況を考えれば言い掛かりでしかなく、全くのナンセンスである。

共産中国のチベット侵入、そして亡命(チベットハウスより抜粋編集)

1949年、内戦に勝利した共産党の人民解放軍がチベット侵攻を開始する。
弱冠15歳の法王は、法王としての政治上の全権限を一身に帯びるよう朝野をあげて懇願され、1950年から国家指導者としての役割を担うことになる。
1954年、法王は北京へ赴き、毛沢東ら中国の指導者たちと和平交渉を行う。しかし、中国との国境地帯にあたるチベット東部が中国共産軍によって席巻され、数多くのチベット人が命を奪われた。法王の和平交渉への懸命の努力も、圧倒的軍事力を誇る中国側の強硬姿勢の前に、全て空しい結果となった。

1959年3月10日、法王の身を案じたラサ市民が一斉蜂起し、これに対して中国軍が容赦無き弾圧を加えた。法王は中国軍の撤退とチベットの主権、独立を訴えたが、これに対して中国は更なる徹底的な弾圧で応えたため、ついに法王は国外亡命を余儀なくされる。それは、チベット人としての民族のアイデンティティーを守り抜き、自由の地で本物のチベット文化を保存し、他日を期そうという悲願を込めての逃避行であった。

チベット亡命政府の長として

ダライ・ラマ法王は、インド北部ヒマチャルプラデシ州のダラムサラに本拠を構え、その地でガンデンポタン(チベット亡命政府)を樹立した。
その後は、同政府の長としてチベットの高度な自治権の存在を訴え、チベット人に対して中華人民共和国の中国共産党政府が行った様々な人権侵害行為についての批判などの活動も行っている。
また、チベット仏教の指導者としても世界各地をたびたび訪れ、仏教の智慧に関する講演、宗教的な対話に関する講演も活発に行っている。
最近では亡命政府の政治的な指導者から引退することを表明(サムドン・リンポチェ首席大臣に地位と権限を譲る意向)したり、自らの転生先についてチベット外の(もちろん中国領内でもない)土地を示唆するなど、ますますその言動が世界中から注目を浴びている。

以上の文章は、主にウィキペディア日本語版の「ダライ・ラマ14世」をベースに、チベットハウス公式サイト、「チベットわが祖国ーダライ・ラマ自叙伝ー」(ダライ・ラマ著 木村肥佐生訳 中公文庫)、「チベットの七年」(ハインリッヒ・ハラ著 福田宏生訳 白水社)等を参考に編集しました。

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