第二章 難民

1993年11月17日〜1994年3月26日

目次

TDRにて

ディクソン?

足跡

TDRにて

インドの首都デリーの北郊にマジュニカティラという小さな町がある。ヤムナー川西岸の幹線道路を北上すれば左側に見えてくる、これっといって何もない集落だが、道路を隔てた反対側にも集落がある。道路とヤムナーとに挟まれた細く南北に延びた土地にバラックが密集し、その北側にはコンクリートの建物が続いている。いわゆるチベット難民のキャンプで、チベタンたちはニュー・キャンプと呼んでいる。
難民キャンプといっても、彼らは助け合いながらちゃんと自活している。バラックの住人でも餓死するほどの極端な貧困はなさそうで、間違ってもインド乞食のように熱死したり凍死したりする心配はない。まして北半分のコンクリート建築の一群には民家以外に小学校や病院といった公共施設、ゴンパ、ゲストハウス、レストラン、旅行代理店、雑貨屋、音楽テープやビデオのレンタル屋まであり、ちょっとした町の雰囲気が漂っている。ゲストハウスやレストランなどは観光客目当てではなく、チベタンたちが仕事などで利用するのだが、デリーという場所柄から外国人の姿も見受けられる。
とはいえ、刺戟に満ちあふれた世界一面白いインド大陸にあっては、わざわざ訪ねようとする外国人はチベット好きぐらいのもので、さもなければ溜まり場として集まるケニア人か、たまたま成り行きで来てしまった旅人か。何れにせよデリーという交通の要衝になければ観光客が立ち寄るようなところではなく、まして長居するようなところでもない。そんなところに四ヶ月も滞在したのだから「お前はここで何をしているのだ」とチベタンから訝られて当然なのだが、本当に何をしていたのだろうか。

11月17日

昨夜は蚊の大群が来襲し、移動の疲れにも拘らず眠ったのは朝方。そんな訳で、今日は睡眠不足と残った移動疲れで何もしていない。
昨日のレストラン(TEE DEE Resturant 面倒だから以後TDRに略)でショー(ヨーグルト)を食べたら、あんまり旨いんでテイクアウトした。
このゲストハウスにはレセプションが見当たらない。二階にいる家族がレセプションも含めてゲストハウスを管理しているようだが、宿代は彼らに払えばいいのだろうか。そういえば、看板も無い。

11月25日

それは、ほんの一瞬だった。チベットの民族衣装に身を包んだ老人たちが笑っていた。素敵な笑顔だった。すれ違いざま、彼らの一人と目が合った。笑顔の瞳に炎が見えた。すぐ振り返ると、彼らは穏やかに笑っていた。中国人と間違えられたのだろうか。
レセプション一家の娘たちがロビーで縄跳びをしてはしゃいでいる。跳んだ回数を数えるのにチベット語と英語とが入り交じり、部屋で声を聞いているだけで結構楽しい。時々英語や日本語の勉強を大声でやっているのが部屋まで届いて来るけど、つい耳を傾けてしまう。考えてみれば、彼女たちだって難民なんだ。

11月27日

TDRから外をぼんやり眺めているうちに、自分が目にしているのがみすぼらしいテントだということに、やっと気がついた。どうもここが難民キャンプだということを忘れがちだ。いや、むしろ避けようとしている。そんなことを考えていたら一人の身なりのいい男性が相席を求めてきた。
彼はカナダへ亡命したバンクーバー在住のチベタンだった。カナダやスイスなど欧米諸国へ多くのチベタンが亡命していること、フランス語のこと、ケベック州の独立運動のこと、カナダがチベットに似て美しく素晴らしいことを、彼は語った。彼の言葉にはチベットへの望郷の念が溢れていた。でも彼はこう続けた。「チベット料理はno goodだ。不潔だし、旨くない。服だって汚いし・・・」
彼は席を立つ前にFREE TIBETのバッチを取り出し、俺に見せながら「チベットは必ず独立する」と言った。独立すれば、彼はチベットでカナダと同じ生活をするつもりなのだろうか。
その後も残って外を眺める。
向かいの屋上でインド人の男がテレビ・アンテナの向きを設定しているのを、チベタンの中年女が後ろから見守っていた。なかなか定まらない様子に焦れったくなった女が自分でやろうと手を出すが、男は頑として譲らず、そのうち押し問答になった。だけど恰幅のいいオバチャンは力ずくで痩身の男をどかし、自分でアンテナを取り付け始めた。後ろで男がああだこうだと口を出しているが、まるで聞いていない。
テントへ視線を降ろし、思った。カナダに亡命したアンテナは、一体どこを向いているのだろう。

12月6日

TDRで最近知り合ったチベタン青年と他愛ない会話を楽しんでいるうちに、俺は旅先で知り合った漢族のことに触れて「彼らは親切だ」「俺は漢族が好きだ」と口にしていた。中国に対する彼の感情を窺い知れないうちから、これはちょっと不用意すぎる。かといって話題を突然変えるのも不自然だし…。慌てて中国公安の悪口を並べながら、なんとか中国から離れようと焦っていると、彼は察してこう言った。
「ボクは別に中国人は嫌いじゃないよ。キミは成都へは行ったかい? ボクはそこで生まれ育ったんだ。そこでは中国人の友だちもいたし、彼らと一緒によく遊んだものさ。だからボクは中国の人も料理も、言葉も、文化も好き。だけど中国の政治だけはどうにも我慢できなかった。だから逃げ出したんだ。僕は中国の政治が嫌いだ。そう共産主義が、それに共産党もね」

12月7日

昨夜、ロビーでおばちゃんと婆ちゃんと(宿の雑用も含めてよく働くあの)娘とが、小麦粉を捏ねたものを大量に油で揚げていたが、後で通りかかった時には、胸の大きな娘も珍しく手伝っていた。彼女がおばちゃんの娘であることは、まず間違いない。学校に通っているようだし顔も似ている。小学生の妹が娘であることに疑う余地はないが、でも、よく働くあの娘は、たぶん下働きに雇われているだけだろう。
昼少し前、空腹に耐えかねて床を離れる。*パニを貰いにゆくと、おじさんから食事の誘いを受けた。屋上で何かしらしているらしいのだが、タダ飯がいただけるのなら何だって構わない。階段を上がってゆくと、上から胸の大きな長女(と断定しよう)が降りてきた。いつもは洋装の彼女が民族衣装で着飾っているので思わず見惚れてしまう。
「今日は何か祭りでもあるの?」
「いいえ、私の×××○○○△△△結婚□□□なんとかかんとかチンプンカンプン」
彼女の英語が流暢すぎて何のことやらサッパリだが、親戚の誰かが結婚するのかな?
屋上では大きなテントの中に長机をコの字に並べてバイキング形式のパーティーが行われていた。みんな民族衣装などで着飾っているのに、俺だけが無精髭のぼさぼさ長髪の小汚い恰好で、おまけに履き古して足型のついたサンダル。さすがに気後れしたが、皆から暖かく迎え入れられ、久しぶりに恐縮した。
パーティーを抜け出して下に降りると、ロビーで再びおじさんから、今度はディナー・パーティーに誘われた。もちろん髭を剃り、夕刻、精いっぱい小綺麗なボロ服で出向いた。
パーティーは小学校で催されていた。玄関から人の間をすり抜けると、正面ステージでインド人のバンドがヒンドゥー歌謡を演奏し、天幕の張られた四角い中庭で着飾ったチベタンたちが飲み食いしながら歓談している。中庭を取り囲む廻廊にも人がいて、かなりの人数が出席している。普段着のインド人もいて、それらの間を給仕が盆を持ってドリンクのサービスに動き回っている。
廻廊を歩いていると、初対面の男がいきなり握手してきて、あなたのことはよく存じ上げてますと言った。遠い異国の日本から我々の住むこの土地へわざわざ来られたホテルのお客様であるあなたにまで祝ってもらえるとは、私ども一族にとってこれ以上の喜びはございません。本当にありがとうございます。とまあ、こんな感じで丁重に感謝されたみたいで、また恐縮してしまった。
空いた席でワインを飲みながら紙皿に遠慮なく盛り上げたタダ飯をいただいてると、ステージの上ではバンド演奏がテープ演奏に切り替わり、プロのダンサーが激しい踊りをし始めた。やがて踊りが終わると、彼女は曲の終止符を待たずに舞台の袖へ下がってしまい、次に現われたヒンドゥー音楽の歌手も、最後の曲を歌い終わったらさっさと引っ込んだ。そういえば来日公演したラビシャンカールにしても演奏以外のことは何もしなかった。カースト制におけるプロフェッショナルとでも言うべきか。
それにしても誰の結婚式なのか、主役らしき姿が見当たらない。そこで隣りのインド人の爺さんに訊いてみたら、
「知らん」
おおインド人!

12月18日

またチキン・*トゥクパの毎日が始まる。ところで、昨日結婚した男は、おばちゃんの弟だった。一人で踊って悦に入ってた酔っぱらいのインド人は、知らなかっただろうな。

12月28日

TDRでラサ出身の婆ちゃん二人と爺ちゃん一人の三人組と相席した。三人は中国語と片言の英語で、俺は下手な英語と片言の中国語で、簡単な会話を交わした。
そのうち三人の注文したものが運ばれて来ると、婆ちゃん二人は、さっそく飯にザラメ砂糖を振りかけ、さらに持参したショーを取り出すと、それも載せ、混ぜ合わせながら食べ始めた。ちなみに爺ちゃんは蒸しパンにカレーだった。

12月31日

TDRから出て下に降りると、チベタンの男から「ハロー」と声をかけられた。ハローと挨拶を返し、そのまま行こうとすると、彼は物凄い早口で英語をまくしたてた。酔っぱらいか精神的に危ないヤツだと直感したが、無視しきれず求められるまま握手して調子を合わすことにした。そんな逃げなくても大丈夫だ俺はカナダのトロントから来たチベタンで怪しい者ではないし酔っぱらいでもないし大丈夫だ心配するなお前は日本人かそうか日本人かペラペラペラ…彼の途切れない英語機関銃に何も言えず、俺はただ頷いていた。それにしても、カナダから来たというわりには妙にインド臭く、胡散臭いヤツだった。

1月1日

新年の味わいは、デリーの方から聞こえてきた花火の音とアフリカンのハッピー・ニューイヤーの大声だけ。それも年頭の三、四十分のみ。
十時三十分頃ノックの音に起床。オバチャンが薬缶ごと持ってきたチャイをマグカップに分けてくれた。
その後、TDRでいつものようにチキン・トゥクパを食べていたら、隣りのテーブルに三人連れのラマが座った。お姉ちゃんが注文を取りに来ると、ラマの一人が俺のチキン・トゥクパを指して「カレ・ディ」と言った。「これは何ですか」のチベット語は「ディ・カレ・レイ」だから、彼の言葉を直訳すれば「何これ」になる。この場合は質問の対象が明らかなので「ディ(=これ)」は付け足しみたいなものだ。そう頭の中で説明しながら少なからず感動し、耳から覚える快感を初めて味わった。

1月3日

TDRへ行くと珍しく閉まっていたので、*ハウス・ナンバー38レストラン* で食事を済ませた。ここの卵炒飯とプレーン・スープはTDRより旨かった。卵炒飯の具はグリーンピース、トマト、ニンジン、青ネギ。スープはチキン・ベースだった。

1月5日

ドーマの店でチャイを飲んでいると、いつぞやのカナディアンがやって来て、カナダ・ドルを受け取りに行くからカナダ大使館へ一緒に来ないかと誘ってきた。いくら断っても綺麗な所だからと執拗に食い下がるので、しまいには無視したが、そのうち諦めたかと思っていると今度は「チャンを飲もう。知ってるかチャン、チベットのビールだ」ときた。うーむ。彼の喋りは煩いが、チャンには以前から興味があったので付き合うことにした。
ゴンパの前庭に出ると、ヨーロピアンのカップルが向こうから歩いてきた。カナディアンは「ハロー、俺はカナダ人だ」といきなり切り出すと ” Which is your country ? ” と続けた。それも強い巻き舌で your を「ユアーる」と発音する。インド訛りのような英語で突拍子のないことを早口で喋り続ける彼に、ヨーロピアンのカップルは怪訝な顔を示し、おまけに「マイ・フレンド」の俺まで変な目で見られてしまった。
チャン屋はバラック地区との境をなす路地の南側にあった。やはりバラックで、チベタンの女将が一人で切り盛りし、たまたまなのか、客は全てインド人だった。
女将の尻を撫でながら「オレの女だ」と俺に紹介すると、カナディアンは「カナダ大使館へドルを受け取りに」行ってしまった。これで最低二時間は安心していられると思っていたら、約二十分後、彼は早々と戻ってきた。でも、そのまま奥へ消えてくれた。
チャンは飲み口が軽くアルコール度が低いので、つい調子に乗って呑み過ぎてしまった。目の前で客の一人が朗々と歌いあげると、もう一人が負けじと大声を張る。意味不明の言葉が飛び交う中で気分よく酔いがまわり、そのうち弟が「トーシバ」に務めていると言うインド人と仲良くなった。彼から家へ来ないかと誘われたが、ちょうどそこへカナディアンが現われ、彼とヒンディー語で言い争いを始めた。途端に俺は気分を害した。
店を出ると、とにかくカナディアンから逃げ出したい一心で「気持ちが悪いから横になりたい」と嘘をついて宿へ向かった。でも、結局、彼は部屋までついて来た。もちろん際限のないマシンガン・トークの引き金は引かれっ放し。
それでも、部屋に入ってダライ・ラマの写真を目にした彼は、写真に向かって額を擦り付けるようにして拝み、泣いて懺悔し始めた。そして、それを見た俺は少なからず同情したのだろう、彼の言動を肯定的に理解し直そうとした。が、そこへ頼んでおいたチャイを下働きの娘が運んで来たのを見て、このオヤジはさっそく彼女を口説き始めた。勿論ふられたが、チャンで粘りを増した彼のねちっこいこと。本格的に気持ち悪くなってきた。
そのうち俺のウォークマンを聴きながら彼は踊り始める。これ幸いと日記をつけ始めるが束の間、いつの間にやら俺に向かってチベット語で話しかけていた。無視すると「お前にチベット語を教えてやっているんだぞ」と詰め寄り、無理矢理チベット語を言わせようとする。まるで拷問を受けているような気分になり、吐き気を催し始めた。
小一時間して彼は食事に出かけた。一緒に出かけるつもりでいたようだが、もちろん断った。ウォークマンを貸してくれ、代りに手荷物を部屋に置いてゆくから。でも必ず戻ると、彼は何度も念を押していたが、俺は何も疑ってはいない。とにかく早く消え去ってくれ!
___そして今、TDRにいる。彼と入れ違いで空腹が訪れたのだ。書き置きをドアに貼って、彼の荷物はレセプション一家に預かってもらった。そして先程までチベタン女性と話をしていた。ドーマのことをよくクレイジーだと馬鹿にしていた彼女だ。
彼女はカナディアンの事を知っていた。彼女によれば、実際に彼の弟がカナダに住んでいて、彼もカナダへの亡命を希望しているのだが、何故かビザが下りない。その為かどうか定かではないが、やっぱりアル中。彼女の言葉が次々と謎を溶かしていく。なぜカナダ人と名乗るのか、なぜインド英語のマシンガン・トークなのか、なぜ「心配するな、俺は金を持っている」と口癖のように言うのか、なぜカナダに関する言葉が具体的でなくナイスとグッドとビッグだけなのか、なぜ踊り方が結婚式で見たインド人と似ているのか、・・・一つの人生劇場を観る思いがした。

(夜。TDRにて)

なんてことだ。いくら安物でも、いざ失うと腹が立つ。おばちゃんの英語は相変わらず聞き取りづらいが、カナディアンは泣いていたらしい。でも姑息な演技ではないかという疑心は打ち消せない。おまけに、それはダライ・ラマの写真の前で流した涙にまで及んでいる。それでもダライ・ラマの写真を眺めているうちに、お人好しが疑いを抑えつけた。明日もう一日待とう。それで返して来ないようなら諦めよう。

1月6日

何度か見かけたことのある年老いたラマが相席した。下手なチベット語で名前を訊くと、トォーテン・タパと名乗った。注文したサブジー(野菜カレー)とティンモーが来ると、彼はそれらを先ず目の前に掲げてマントラ(?)を小声で唱え、それから食事に移った。在家のチベタンでも見かける行為だが、やるのは殆ど老人だけ。そんなタパさんをスケッチしたが、あまりジロジロ見るわけにもいかず、顔がマンガになってしまった。
それにしても、俺のコーヒーはまだか。

(昼。TDRにて)

TDRへ行くとタパさんがいた。テンツクを食べている。そして俺を見るなり「ミナン?」と言った。嬉しい、名前を覚えていてくれたんだ。俺が「トーテン、んータパ?」と訊きかえすと、席に座れと勧めてくれる。そしてお互いに意味の分からぬ「会話」をただニコニコしながら交わした。チキン・トゥクパを食べる前に合掌して「いただきます」と言うと、タパさんは笑った。
遂に*パラまでいつもの値段19ルピーを覚えてしまった。「エヴリデイ(毎日だ)」と俺が言うと、TDR姉妹の妹のほうが「フィックス・プライス(定価よ)」と口を挟んだ。
部屋に戻って今後のことをいろいろ考えた。そして結論。朝起きて顔を洗うことが目下の最大課題で、それなくしては全てが無意味だ。それからカナディアンは来なかった。

1月10日

昼のTDRで老婆とその孫をスケッチしていて思ったが、年老いたチベタンはいい顔をしている。苦難の歴史を経てきた重みを感じるけど、優しいチベタンの心をそのままに生きている姿に静かな感動を覚える時がある。老婆の眼には、やんちゃな孫がどのように映っているのだろうか。
それにしても、ショーとチャイが来ない。急に混んできたから忘れられたか。斜め前のドイツ人と思しき男性も、何もしらぬとはいえ右頬に瘤のあるインド人に注文してしまい、ガイドブックを読みながら長いこと待ち続けている。しかし俺の予想では、あのインド人は英語もチベット語も分かってない。注文を受けても分からないオーダーは通さないし、通したとしても一番最後の注文だけ。だから彼に頼む場合、ヒンドゥー語で尚かつ一品のみ、が原則。それでも来ない場合があるから安心できない。だから彼を避けて注文するのが最も無難で、俺は働き者の妹に注文した。なのにチキン・トゥクパしか来ていない。最近の俺の扱い、ぞんざいじゃない? これでも一応客だぞ。おっ、やっと来た。でもショーだけ。今、姉のほうに五回目の「ワン、チャイ」を言ったら、すぐにチャイを持ってきた。ドイツ人らしき彼も注文し直した。あっ、チベタン・フェアへ行くのを忘れてた。なんてこった。

(夕方。TDRにて)

1月11日

昨夜少し降った雨は、その後も断続的に降り続いたが、午後からはなんとか小康状態を保っていた。とはいうものの今日は風もあり、肌寒い一日となった。
昼のTDRで、なかなか来ないコーヒーを再オーダーすると終わったと言われ、代りに「ティーでも構わないか」と訊いてきた。また忘れたな。そう思いながら運んできたティーを一口飲む。「!」ぬるっとした感触に思わず呻きそうになった。バター茶だ。嫌いではないが、ミルクティーの丸い甘みを予期していただけに、とてつもなく不味く思えた。しかし、二口目からのバター茶は身体が温まり、今日みたいな日には却ってありがたかった。
6時頃TDRへ。いつものメニューに *モモも追加。
宿に戻っても停電は続いていた。風よけとしてのガラスのコップにローソクが灯っているのを見て、生活の知恵だなと感心する。そして部屋へ戻ろうと振り返ると、すぐ近くに下働きの彼女がいたので吃驚した。そしてすれ違いざま、小さな声がからかうようにハローハローと耳に届く。振り返ると彼女の目だけがそっぽを向いた。
7時30分、電気が復活。さっそく湯を沸かす。そういえば、夕闇の中でドーマの丸坊主を初めて見た。一応女の子だから恥ずかしがっていたが、虱でもわいたのかな。

1月12日

昨夜、ベッドの中で微睡みかけた頃、また娘の誰かが激昂して泣き叫んでいた。これで二晩連続だが、昨夜はおばちゃんの大声も聞こえ、編み物の棒で壁を叩くような音がしていた。声の感じから新妻のような気がするが、下働きの娘のような感じもする。何れにせよ尋常ではない。どうしても耳に神経が集まり、眠気が吹っ飛ぶ。そのうち静まったのでトイレへ向かうと、ロビーに下働きの彼女がいて、まだ昂奮の冷めやらぬ黒目がちの顔をしていた。そして洗面台で歯を磨いていた親戚らしき青年が、ニヤニヤしながら意味ありげにこちらを見た。
モモが食べたいモモ食べたいモモじゃなきゃ嫌だモモモモモモ!子供が駄々をこねている。ごめんね、今日の最後のモモは俺が食っちまった。彼の様子を見ていると、チベタンの子供にとってのモモは、日本の子供にとってのハンバーグと同じなんだろうな。アハ! モモの代りにカレーを食べさせようと母親が持たせたスプーンを、彼は放り投げましたね。モモモモモモ。まだ言っている。

(昼。TDRにて)

1月13日

朝から霧が立ちこめ、夕方には霧雨になっていた。
三晩続けてチキン・トゥクパ、モモ、チャイ、ショー。ここ数日のショーは溜息が出るほどの絶品で、ヨーグルトというより、ヨーグルトのようなナチュラルチーズだ。そして百ルピー札では釣り銭がないと言われて再びツケ。これで明日もTDRだ。別にツケにされなくても来るけどね、最近は宿よりTDRのほうが寛げるから。

1月14日

オムレツ+野菜炒飯=オムライス。何故こんな簡単なことが思いつかなかったのだろう。今朝(というか昼)、一人で感動していた。
TDRには家族連れのチベタンがやって来るが、今日も父親が娘三人と息子を連れて食事をしていた。その様子を眺めていると、チべタン家族には大黒柱がまだまだ健在のようだ。やがて嫁いでゆく娘にあの父親は寂しい思いをするのだろうか。ふと、そんなことを考えたら、なぜか父親が日本人に見えてきた。
3時頃、ドーマの店でチャイを飲みながらインド人の靴の修繕屋を観察する。先ず小瓶に入った色の粉を脂と練り合わせて靴と同じ色の靴墨を調合する。それをブラシに着けて左手に持ち、右手に持った靴を磨く。ブラシの動きに合わせて靴を持つ右手もブラシと逆方向へリズミカルに動いている。どこか特徴のある動きだと思っていたら、右手と同じように頭も振っていたのだ。
6時30分TDRへ。いつものメニュー。清算する前にティンモー作りを観察した。生地を幅3センチほどの帯状に切り、それを約5センチ、7センチ、10センチの三種類の長さにちぎっては指に巻き付けるようにして、ロールパンのような形を次々と作ってゆく。後は蒸篭で蒸して出来上がり。
ティンモーを作っていた一人の若いチベタン男性が、「あなたの名前はなんですか」と日本語で話しかけてきた。だからチベット語のつもりで「ンガ・ミン・○○○(私の名前は○○○)」と答え、「ケラン・ミン・カレイ」と名前を訊きかえすと、「(ケラン・ミン・)カレイ・レイ」だと訂正された。後でフレーズブックで調べたら、「ンガ・ミン・○○○」も正しくは「ンガ・ミン・○○○・イン」だった。タパさんが言った「ミナン」は、正確には「○○○・イン」と発音したのだろう。その若者は更に日本語で質問してきた。
「あなたは、ジンセイは、??ですか」
音感が良いのか彼の発音は申し分ない。だが、これでは訂正もしてあげられない。ちなみにこの男性、TDR姉妹の親戚のようだ。
宿に戻ると下働きの娘がいたので、早速「ケラン・ミン・カレイ・レイ?」彼女は笑って後退りしながら、小さな声で「ンガ・ミン・ソムナム・イン」と言った。

1月16日

TDRへ夕食に行くと新しいボーイがいた。最近見かけなかったコブ男とチベタンはクビにされたのだろう。ろくに注文が取れないのだから仕方あるまい。それに比べて今度のチベタンは動きがキビキビしている。
タパさんからチベット語のレクチャーを受けた。タパさんがゼスチャーを交えてチベット語の短いフレーズを言い、俺がオウム返しする。俺がちゃんと発音できるまで繰り返し、ノートにメモするとタパさんはうんうんと頷く。でもゼスチャーが読み取れず、肝心の意味が判らない。フレーズブックにも該当する言葉がなかなか見つからない。日本語の耳では判別できない音があるのか、それとも方言なのか。それでも「カラ」だけは推測が当たり、食べ物だということが判った。問題は「ディクソン」と「テギィン」だ。「ディクソン」はタパさんのゼスチャーから「さようなら」だろうと当て推量して、店を出るときに使ってみたが、パラはきょとんとしていた。「テギィン」に至ってはお手上げ状態。

1月17日

今朝、外の通路でおばちゃんが洗い髪を乾かしながら「アチュチュチュチュチュチュー、アチュチュチュー」と呪文のように言っていた。以前にも食器を洗う音に交じって「チュチュチュチュー」というソムナムと新妻のものらしきふざけたような声が、ドア越しに聞こえていたことがある。そういえば、カイラスで、熱いものに触れたときや痛いときは「アツィツィ」と叫ぶのだと子供が実演してみせた。「アチュチュチュー」は冷たいのを我慢するときの声だろうが、もしかすると「アツィツィ」も「アチュチュ」も同じ言葉で、ただ刺戟に対するニュアンスの違いで発音が異なって聞こえるだけかもしれない。
昼、TDRに12人のラマの団体が現われた。漢族みたいな顔、日本人そっくりの顔、インド人の血が混じっていそうな顔、その他いろいろ。でも、この程度の団体は珍しくもない。一度ラマだけで店が満席ということさえあったのだ。彼らの服装の色には決まりがあるらしいが、デザインは問わないのだろうか。俺の頭が固いのか、黄色い法衣の下に臙脂色のハイネックのセーターというのは、なんだか違和感を感じる。
少しするとタパさんが現われ、ラマたちと二三言葉を交わしてから俺のテーブルについた。タパさんが食べ終わって暫くすると、パラがやって来て、「ディクソン?」とタパさんに問いかけるように言った。タパさんも「ディクソン」と即答する。やはり、少なくとも「さよなら」ではない。
タパさんが帰った後、日記をつけていると新しいボーイが覗き込んできたので、少し話をした。青海省西寧出身の彼は、ヒンドゥー語より中国語の方がまだ話し易そうで、漢字が懐かしいのか、「我的名字(私の名前)」と言って日記帳に「扎西」(ザーシー)と書き込んだ。

1月18日

夕食をTDRで取っていると、おこぼれ目当てに忍び込んだ猫に向かって子供たちがミャオミャオ言っていた。その猫が近くに来たので鶏肉を少しだけあげると、俺に狙いを定めたのか、足許に座り込んでこちらをじっと見上げる。殆ど動かないのでスケッチしていると、TDR姉妹の妹が語気鋭く「シミディ!」と追っ払った。直ぐさまフレーズブックを引っ張り出すと、シミは猫、ディは英語のthisやtheに当たる後置詞。
そうそう、テギィンとディクソンが解決した。テギィンは正確には「テギィイン」で、動詞テイ(与える)の未来形。現在形はテギィユ。そしてディクソンは「充分」とか「たくさん」など充足している事を表す単語。つまりタパさんが教えたかったのは、「ンガ・カラ・テギィイン」食べ物をあげようと云う申し出を、「ンガ・カラ・ディクソン」もう充分(食べたから)と断る、そんな会話だったのだ。
解決の糸口はTDRの日本語が少しだけ話せる彼で、他にもチベット語のフレーズをいくつか教えてくれた。語順が似ているので日本語と対応させた方がチベット語は覚え易いような気がする。ちなみに彼の日本語は、*カトマンドゥのレストランで働いた二年間に、多くの日本人旅行者から少しずつ耳で覚えていったそうだ。
そんな彼に出身地を訊いてみた。すると彼は笑いながら答えた。
「インドで生まれたけどチベット出身。変だよね、チベットに行ったことがないのに。でもチベット出身。オッカシイネ」

1月19日

今日のブランチはいつものメニュー。そしてまたタパ爺ちゃんのレクチャーを受けた。繰り返し繰り返し発音を真似て、やっと合格したところで取り敢えずメモ。タパ爺が頷く。そしてチベット語による意味の説明。今日はゼスチャーもなかった。何も分からない。フレーズブックを盗み見ても分からない。夕食時にもレクチャーを受けたが、この時はフレーズブックを取り出した俺に、そんなもん見んでもワシが教えてやる、というようなことを言ってきた。タパ爺のありがたい気持ちは伝わるが、如何せん言葉が分からない。それでもタパ爺が帰った後でメモや記憶やフレーズブックを総動員し、なんとかタパ爺が教えてくれた短文を突き止めた。
タパ爺のレクチャーは大変だけど、さっそく耳に効果が現われた。俺を後ろ指さして囁き合っている女の子の言葉が聞き取れたのだ。俺のサングラス付き眼鏡を見て、彼女らは「メク・シー」と言った。メクは「目」、シーは「四」。つまり「四つ目」だ。
スチーム・モモを食べていたら、以前見かけた太ったおばさんの事を、ふと思いだした。スチーム・モモは不用意に噛みつくと中の汁が飛び出して慌てることがたまにある。しかしその大きなおばさんは、モモにかぶりつくと、そのままチュルチュルと音をたてて汁を吸ってしまい、それから食べていた。彼女に限らずチュルチュルと汁を吸うチベタンを時おり見かけるが、昨日も熊みたいなラマがチュルチュル音をたてていた。

1月20日

今日のソムナムは久しぶりにセーターとズボン姿だった。注文を取りにきた扎西が、ガイドブックのチベット地図を懐かしそうに眺めていた。コピーをとったらオリジナルの方をあげようかな。猫ちゃん(妹の方をそう呼ぶ事にする)は昨日から前掛けを作っているが、今も階段で何かを口の中でもぐもぐさせながら針を通している。タパ爺を昼に見かけたけど、髪の毛を剃りあげてツルツル頭になっていた。気分が良くないらしく何も食べずに帰ってしまったけど、風邪でもひいたのだろうか。目の光が弱く虚ろいでいたのも気掛かりだ。お、猫ちゃんが針仕事を止めて動きだした。もぐもぐしていたのはガムで、タンタン鳴らしている。おや、ナマステ、シミ・ディ。インドの動物にしては珍しく太っていると思っていたが、どうやら妊娠しているようだ。よく見れば腹部だけプックリしている。

(夕刻。TDRにて)

1月24日

午前中、目が醒めると外の通路から声がしていた。覗いてみると、ソムナムと姿は見えないがおばちゃん(婆ちゃん?)が、枕に中身を詰めていた。日なたで布の切れ端をゆっくりのんびり詰めているが、ソムナムは謡ったり喋ったりしているうちに手が止まりがち。そんな光景をぼんやり眺めていると、チベタン女にポカポカした陽だまりというのは実にいい取り合わせだなと、しみじみ思った。

1月25日

食事をしていると、見知らぬチベタン男性が「日本語を英訳してくれ」と言ってきた。手紙でも訳すのだろうと安請け合いしたが、彼について行った先で手渡されたものはビデオカメラの取扱説明書。日本で暮らしていたときに購入したカメラとデッキを使って、数日後に控えた弟の結婚式を記録したいが、カメラの使い方が分からないと言うのだ。デッキの操作は知っているらしいので、それを手がかりに基本的な操作方法をなんとか説明し、付属機能などは茶を濁した。この際辞書がないので説明書は無視したが、これは英訳以前に、説明文に氾濫するカタカナ英語の意味が判らなかったからだ。ノー英和ディクショナリーならジャパニにもアンインテリジブルなジャパニーズというのはアメイジングだが、カタカナ・イングリッシュでイクスプレインするジャパニは全くもってストゥーピッドざんす。
さて、彼らと雑談してるうちに、何故だろう、やっぱり話題が中国に触れてしまった。
「中国語はよくない。中国の人間も、政治も」
苦虫を潰したような顔をして、男は首を横に振り「ノー・グッド」と吐き捨てた。

1月28日

また口が勝手にチキン・トゥクパを注文してしまった。そして猫ちゃんはまたチャイを忘れている。帰った客の食器を片付けに来たとき、俺を見てヘヘッと笑い、チャイを入れに戻った。チャイに続いてチキン・トゥクパも直ぐに現われたけど、うーん、また来たのね。

(昼のTDRにて)

TDRの道すがら、背後でぶつぶつ呟く声がする。聞き覚えのある声だが、嫌な想い出に連なっているのか、何故か不快な気分になる。歩調を緩めて声の主をやり過ごすと、なんとカナディアンだ。彼を睨みながら、気がつくと俺を立ち止まって拳をぐっと握りしめていた。ラマと立ち話している彼に厭味の一つでも言おうとしたが、そのまま背後を通り過ぎた。それにしても、なぜ俺は怒ったのだろう、自分でも驚きだ。

1月29日

朝っぱらから外の通路でソムナムがカーペットを叩いて煩く、「静かにしてくれ〜」と呻いていると、そのうちガチャガチャ、ゴンゴンと別の音がする。布団から顔を出すと、レセプション一家の長女が割れた窓ガラスを外していた。そのうちソムナムが加わってひそひそ話が始まり、起きるに起きれなくなった。金網があるからよかったものの、くすくす笑われながらの狸寝入りは辛かった。
十時頃には窓ガラスの入れ替えが終わり、やれやれと安心していると、珍しくまとまった雨が数十分降り続いた。その後すぐ陽が射したけど、吹く風が冷たかった。
チキン・チョウメン(炒麺)を頼むと、猫ちゃんが驚いて「チョウメン?! トゥクパ or チョウメン?」と訊き返した。俺はもう一度注文を繰り返す。やがて猫ちゃんが厨房から料理を持って現われた。やって来る彼女手には、あれえ、チキン・トゥクパだ。なんでやねん。

1月30日

夕食後、パニを貰いに行くと、おばちゃんがトゥクパが好きか訊いてきた。唐突だったので「へっ、トゥクパ?」と確認すると、間髪を入れず彼女は言った。
「そうそうトゥクパ、私が持って行ってやるよ」
「サンキュー」
どうして俺の口は、こうも自分勝手に動くのだ。しかし、ソムナムが運んで来たトゥクパは旨かった。器を返すときに「シムポ・シダック・ドゥ(とても美味しいです)」と感想を添えると、パラがファッハッハッと高笑いした。食事のサービスでも始めるのかな。

1月31日

部屋に戻って微睡みかけた頃、ノックの音がした。ドアを開けると、なぜか含み笑いのソムナムが請求書を持って立っている。その場で清算を済ませてベッドに横たわり、暫くすると再びノックの音。何だ何だとドアを開けると、またソムナムがいて、手にチャイの入ったコップを持っていた。この前のトゥクパといい、今回のチャイといい、妙にサービスがいいけど、どういった風の吹き回しなんだ? ところで扎西は辞めたようだ。でもTDRは滞りなく、いつもと変わりなかった。

ディクソン?

2月4日

チベット暦の正月に備えてか、新妻が縄に新しいタルチョを縫い付けていた。爆竹が至るところで鳴り響き、のんびりした中にも年末の浮き足立った雰囲気が漂っている。しかし、いきなり足許へ改造爆竹を放り投げるのだけは勘弁してほしい。子供たちが急に目の前から逃げ出したら要注意。呑気に構えていたら耳鳴りが待っている。

2月5日

外の通路から下を覗くと、おばちゃんとインド人の掃除婦がファンを分解して掃除していた。未使用のまま放ってあった一階部分も客室にするのだろうか。TDRでは猫ちゃんからコーヒーの f の発音が h になっていると指摘され、少しむっとした。

2月7日

久しぶりに薄手のシャツに袖を通すと、肩の荷を降ろしたように軽く感じた。考えてみれば、あと二ヶ月もすれば酷暑季だ。熱くなる前にネパールへ行くべし。などと思いながらTDRへ。今日も気がつくと猫ちゃんに日本語を使っていた。猫ちゃんも俺にチベット語で話しかけてくるし、最近は互いに異邦人であることを忘れがちだ。

2月8日

レセプション一家は一階へ移ったみたいで、いつの間に引っ越したのか新婚のいた隣部屋まで空っぽになっていた。ソムナムと婆ちゃんは二階に残るようだが、家庭の匂いがなくなってしまい、今日は妙に静かだ。テレビの音もラジカセのテープの大音量もない。建物のペンキが塗り直され、泊まり客が少ない。新規の客は入れないのだろうか。

2月9日

中国ビザを取った。90日ビザを即日発行。その代わり1650ルピーもした。
TDRで夕食後、年明けも営業するのか確認すると、日本語が話せる彼にパーティーがあるから一緒に飲もうと誘われた。このままキャンプで新年を迎えるのも一興かもね。
気になっていたので宿の三階を見てまわると、塞がっているのは一室だけで、あとは空き室だった。俺の部屋以外はペンキの塗り替えが進んでいる。夜、天井を塗るために組まれた足場を目にすると、自分一人取り残された気分がますます募り、堪らない。そんな時にソムナムを見ると、ほっとする。そうそう、チョコレートの金色の包み紙で折った大中小の鶴を彼女にあげた。でも彼女は怪訝な顔。ゴミ屑と勘違いしたのかな。

2月10日

十時過ぎ、ノックの音に惰眠から醒める。やはりチェンジルームを言い渡され、隣の109号へ移る。今日はチベット暦の大晦日。ますます爆音が鳴り響いていた。爆竹にはもう馴れたが、正体不明の一発ものの物凄い爆音は、部屋の中に居ると地震の縦揺れに似た響きを伴うときがあり、心臓に悪い。また殆どのゲストハウスでインド人の職人がペンキの塗り替えをしている。
TDRは電球で派手に飾り付けがなされ、明日から三連休。チベット暦にも三箇日はあるのかな。
帰りがけにアマラが「ランチに来なさい」と言った。明日のパーティーのことなのか仕事始めの日のことなのか判然としないが、苦手な英語の単語を思い出そうと唸っているので、彼女の次の言葉を待っていると、その後ろで猫ちゃんが、両手を頭の横でひらひらさせながら舌を出して笑っている。そこへ腰を屈めて床を掃いていた姉が通りがかると、アマラは突然彼女の背中をバシッと力いっぱい平手打ちし、ガハガハと豪快に抱きついた。痛い顔をする暇もなく、姉はアマラの巨体に押し潰される。やっと猫ちゃんが流暢な英語で助け舟を出し、それでアマラも言葉を思い出した。「そうそうトゥモロウ。明日、あなたはランチに来る。OK?」

2月11日

タシデレ。
今日は明け方からドンパパ爆音が盛んに鳴っていたが、昼前には下火に。
九時四十分頃、ドンドンと煩いノックに起床。扉を開けると、婆ちゃんがチャイと油で揚げた菓子とを差し入れに持って来た。
昼過ぎ、TDRへ。ハレの日の家庭料理は、結婚式の日と同じものだった。既に集まっていた親族たちは正月らしく晴れ着で着飾り、民族衣装で正装していた猫ちゃんの笑顔に、少なからずドギマギした。
従業員たちも新年の挨拶といった感じで三々五々現われ、そのうちアマラや陽気なおばさんたちが踊り始めた。早々と酩酊している料理人の太っちょインド人を、アマラは強引にダンスのパートナーに引きずり出したが、豪快なステップのアマラと振り回される彼とは、まさに蚤の夫婦だった。やがてアマラから解放された彼は、千鳥足で若い娘たちを踊りに誘おうとしたが、彼女たちはキャーキャー騒いで逃げてしまった。 その後、陽気な中年女性たちに次々とタライ回しにされた彼は、ようやく解放されたが、気分が悪くなったのか暫く椅子に座り込み、そのうちふらふらと店を出てしまった。そして気がつくと、ホスト役のパラを除いて男どもの姿が消えてしまい、パーティーは女たちの井戸端会議になってきたので、とりあえず宿に戻った。
明日はどうしようか。TDRでは明日も親族が集まるらしいが、キャンプにいると間がもたない。そして何より、極度の旅愁に参ってしまう。

2月12日

旅行代理店の張り紙にはLOSHARのため休むとあったが、インド人居住区は、以前見かけた”HAPPY NEW YEAR”の飾り文字が”HAPPY LOSHAR”に変わっていたくらいで、いつも通りだった。

2月13日

久しぶりに早起きをした。妙に騒がしいと思っていたら、至近距離でボンと大きな爆音がした。何事かと窓を覗くと、向かいの屋上で女たちが一斉に物陰へ逃げ隠れた。彼女たちが逃げ去った後には素焼きの壷が一つだけポツンと取り残され、見ていると壷の口から火柱が吹き上がり、暫くするといきなり爆発した。これが大きな爆音の正体、爆壷だ。
午後からフィルムを撮りきるつもりで出かける。インド人居住区では不発に終わり、ゴンパへ向かう。ゴンパ周辺は賭け事や手品の出店で賑やかにごったがえし、前庭には大きな天幕が張られ、幟のような旗が掲揚されていた。そして建物の正面には額に入った大きなダライ・ラマの写真が祭壇の真ん中に祭られていた。
宿に戻って外側のシャワー室で洗濯。確実力強くなった陽射しが、心地よい。
日向ぼっこなのか、近くでソムナムが何をするでもなく立っているので、バケツを貸してほしいと頼んだ。全く英語の話せない彼女ではないが、ニヤニヤするだけで返事してくれない。試しに言ってみた「称好」も通じない。では、これならどうだ「ケラン・クス・デゥポイン・ぺ」(ご機嫌いかがですか)さすがは拙くともチベット語、彼女はアハハと笑った。でも肝心の「バケツを貸してください」をチベット語でどう言うのか、俺は知らない。
洗濯を終え、パニをもらいに行くとソムナムの妹が部屋にいた。妹の名前は難しすぎて聞いたそばから忘れてしまったが、彼女の要望で姉妹の写真を撮り、ソムナムの部屋でチャンをいただく。奥の壁にはダライ・ラマの写真と曼荼羅とかが祭られ、その前のテーブルには試供品のような小瓶の化粧品やシャンプーが並び、まるで供え物のように見えた。そしてその手前に、以前あげた三羽の折り鶴が畏まっていた。ちょっと感激。あれ? そういえばソムナムは里帰りしないのかな。逆に妹が訪ねて来ているけど、両親はどうしたのだろうか。

2月14日

店が開いているだけで、通りの雰囲気はガラリと変わる。TDRはいささか正月ボケで、なんとなく勢いがなかった。
ソムナムに出来上がった写真を渡すついでにパニを頼んだが、いつまで経っても持って来ないので、チベットや結婚式の写真を持ってレセプション一家の部屋を訪れた。チャイとケンパ(正月に婆ちゃんが差し入れてくれた菓子)をいただきながら、写真を見る彼らと少し話をしたが、その中で、TDRのアマラが新妻さんの姉であることを知った。

2月16日

店に見慣れぬ三人組の男が入って来た。一人はチベタンだろうが、後の二人が日本人に見えなくもない。一人が会釈を返して来たので、試しに日本語で話しかけてみた。
「ここに泊まっているんですか」
「ソーリー、アイ キャント スピーク ジャパニーズ」
チベタン訛りに聞こえなくもないが、どうも日本人臭い発音だ。
「…日本の方ですか」
「ノー、アイ アム ア ティベタン」
「あ、俺の日本語に答えましたね」
「あ、そうか」と笑ったのは、もちろん日本人の青さん。でも、あとの二人はチベタンで、ソナムとイシ。三人はダラムサラから一緒にやって来て、到着したばかりだと言う。彼らは俺の紹介で、この宿の三階に入った。
三人とも妻帯者で、そのうちソナムだけは国際結婚。明日はスイス人の妻が来るそうで、何かと言えば「俺のワイフはビューティフルだ」と上機嫌だった。そのせいもあって、もっぱらソナムが会話の中心になり、英会話の不得意なイシはあまり喋らなかった。
イシはラサ出身だが、ソナムはインドのナガランド出身で36歳。ボブ・マーレイに似ているが、それを口にすると嫌がる。元チベタン・アーミーで、本人は「辞めた」と言っているが、三日間の休暇期間を過ぎても隊に戻らず旅を続け、三週間後に戻ってみたら除籍されていたと云うから要するに「クビ」にされたのだ。「ダライ・ラマの軍は絶対に死なない」と胸を張るが、彼に実戦経験はない。
また彼は、かつてのレロレロのジャンキーからノー・ドラッグ、ノー・ガンジャに変身を遂げたらしいが、ドイツ人がハッシッシ十キロを本国に持ち込んだと耳にして「なら俺はスイスだ」とチャラスの密輸で金儲けを企んでいた。ところが日本の大麻の末端価格を知るや、イシと真剣に相談しだして「やっぱりスイスは止めだ。日本へ行く」と言い出した。冗談じゃなくて彼は本気だからねと青さんは苦笑う。
「ソナム、そんなことより働いたらどうなんだ」
以前は兄の工場で働いていたらしいが、ここ三年は無職だとか。それでも税金だけは毎月きちんと亡命政府に納めているというから、一体全体、生活費はどうなってんだろう。
そんな彼だが、中国大使館へのデモには参加していない。「以前は俺も参加していたよ。でもある時、周りを見回したんだ。そして気がついた。俺も、彼も、あいつも、こいつも、ここにいる誰も彼も、みんな貧乏人。金持ちなんかどこにもいない。実際にデモをしてるのは貧しい連中で、金持ちは決して参加しないんだ。何故だか判る? 彼らは汗をかきたくないのさ。クーラーの効いたオフィスにいれば涼しいし、自分の仕事を休んでまでして暑い外へは出たくないんだよ。彼らは金を出すだけで何もしない。確かに彼らの寄付金は必要だけど。けど、貧乏人だけがいくら頑張っても駄目なんだ。なのに金持ちの連中ときたらFREE TIBETより自分のビジネスの方が大切なんだ。それに気がついてから、俺はデモに参加していない」ソナムの言葉を鵜呑みするつもりはないが、語気の強さに失望の大きさが現われているような気がした。
ソナムから聞いて初めて知ったことや気づいたことは、他にもある。
チベット難民にはパスポートが無い。亡命政府が発行しているが、現実には外国のビザが取得できない。だからインド以外の国へ行くには、インドのパスポートを取得するか、亡命するかしかない。ただしネパールとの国境だけは自由な往来が認められている。にもかかわらず、以前ソナムがネパールへ入国しようとしたとき、ネパールの係官は、必要の無い筈の書類を要求してソナムと揉めた揚げ句、パスポートの呈示を求めたそうだ。
「チベタンがパスポートを持っていないことは百も承知さ。要するに彼はカネが欲しかった。でも俺は払わなかった。だから腹いせでそんなことを言ったんだ」
ソナムも、イシも、インド政府発行の身分証明証を持っていた。見せてもらうと、race欄にTibet、category欄にrefugeeと記してあり、最後の方には空白のページが続いていた。インド国内の移動でも地方行政官の許可が必要で、その印章を空白のページに押してもらわなくてはならないが、ここでもよく*嫌がらせを受けるそうだ。

2月17日

インド人居住区へカメラ持参で散歩に出かける。途中、恐らく昼寝のインド人が幹線道路の歩道に横たわっていた。一応屍体の可能性もあるので、念のためフィルムに収める。
帰りはゴンパ裏の細い路地を通り、いつもの小径に出る。TDR手前の脇道で、長椅子に座った中年の女たちが世間話をしていたのでカメラを構えた。
何枚か撮っていると、その中の夫婦に家へ招かれた。家といっても大きなテントの食堂で、奥で若者がビリヤードをしていた。アマラの話では、昨夏に新築したばかりの家を火事でなくしてしまったそうで、帰りがけに改めて見たら、低い塀だと思っていたのは焼け崩れた壁だった。
アマラがモモを作っている間に二人の青年が現われたが、一人はすぐに出て行き、残った青年と話を交わした。もはやチベットの人口はチベタンより中国人の方が多く、ラサでは中国文化が横行し、このままではチベットにおいてチベット文化が絶滅すると、彼は物凄く危惧していた。いち観光旅行者にすぎない俺の雑感にも、彼は澄んだ瞳で真っすぐ見据えて耳を傾ける。俺は自分のいい加減さが恥ずかしくなった。
ところで彼はアマラの息子だろうか。そんな気がしてアマラに訊いてみた。
「彼の母親は、ダリィラマだ。父親も、ダリィラマだ。私の母も、ダリィラマ。父も、ダリィラマ。彼(パラ)の母も、父も、ダリィラマ。チベタンの親は、ただ一人、ダリィラマだけ。ダリィラマは、全てのチベタンの母で、父なのだ。みんな、ダリィラマの子供。チベタンは、一つの大きな家族。チベットは、一つ。二つ、三つ、じゃない。たった一つだ。我々の望みもただ一つ、それは、自由」
彼女の英語は拙くて、所々で突っかかる。ラパはただ微笑んでいた。奥の若者たちはニヤニヤしていたが、一人が彼女の演説に水を差したようで、彼女と軽い口論を始めた。その隙に青年が静かに話し出す。
「ボクは旅行者からチベットの話を必ず訊くようにしているんだ。インドで生まれ育ったから自分の国を実際に見たことがないから。だからよく想像してみるんだけど、自分の国がどんな所だろうかってね。インドと違って空気がきれいで、どこまでも山が連なり、人が少なく何もないけど、とっても素晴らしい所だって聞いてる。でも、ボクが帰れるのは想像のチベット。本物のチベットには行けない。だけどキミは自由に旅をして、チベットの実際の姿を知っている」
「でも、俺はただイージーな旅行をしただけで、ほんの表面しか見てないし、俺の話なんか何の役にも立たないでしょう」
「そんなことはない。充分役に立ってるよ。そりゃあ新聞や本を読んだりして勉強もしてるから、自分の国のことを全く知らない訳じゃないけど、でも、チベットの今を少しでも沢山知っておきたいんだ。いつでも帰れるようにね。ところで、次のチベットにはいつ行くんだい」
「それがまだ決めてないんだな、結構ここが気に入ってね。性に合ってるのか、もう三ヶ月も居座ってるよ。でもそのうちインドのビザが切れるから、近いうちに発つつもりではいる。既に中国ビザは取ってあるし、」
「何?その、ピ…ザ?って」
「ビザ?」
「そうそう、そのピザ」
「ビザ」
「ビザ」
「そうビザ。で、そのう、ビザはですねえ、大使館が発行する入国許可証とでもいいますか…」
「チベットに入るのに許可なんて要らないよ」
「キミたちはそうかもしれないけど、俺は外国人だから許可が要るんだ」
「それはおかしい。初耳だよ。それに確かキミは中国の…あー…ピザ」
「ビザ」
「そうビザ。どうして中国なんだよ。キミはチベットに行くんだろ?ダラムサラには行ったのかい」
「ああ、去年十月、マクロードガンジに一ヶ月いたよ」
「なら、そこにチベット政府があることは」
「もちろん。ダライラマがいることも。確かにチベット政府に申請するのが筋ってもんだけど、でも、チベットは中国に支配されている。これが今の現実だよ。だから中国の許可無しでは現実として入れないんだ」
「じゃあキミは中国の支配を認めるというのか」
「そんなことは言ってないよ。ただ現実の話をしてるだけ…」
「中国の許可を得てチベットに入るってことは、チベットにおける中国の主権を認めることになる!これだって、現実だろう」
「・・・・」
「・・・頼むから、そんなことはしないでくれ。・・・・大丈夫。そんなもの無くてもキミはチベットに行ける筈だ」
「・・・OK。わかったよ」
「ありがとう。そうだ!3月10日にデモがあるんだ」
「デモ?」
「そう、みんなで中国大使館へ抗議デモをするんだ。キミにもぜひ参加して欲しい。チベットへはその後で出発すればいいから。そしてチベットから戻ったら、チベタンのみんなにチベットの話を聞かせてやってくれ。また日本に帰っても、チベットのこと、ボクたちのことを、日本のみんなに教えてやってくれないか。それだけでいい。それだけでボクたちの力になるんだから」
でも、やっぱり俺は中国ビザを使って彼を裏切ることになるだろう・・・か?

2月19日

実は青さん、プロのカメラマンだった。それもヒマラヤ遠征隊のカメラマンを務めたり、テレビCMを撮影したりと、バリバリのプロカメラマンだ。一年のうち半分は海外にいて、今回もアマ・ダブラムへ夫婦で登ってきたところだと言う。チョモランマにも登ったことがあり、聞けば聞くほど物凄いことが、いとも簡単に口から転げ出る。
スポンサー付きのヒマラヤ遠征でしかチベットに行ったことのない青さんは、これまでヒマラヤに行くという意識が強くてチベットには取り立てて関心はなかったらしい。それが今回の旅行でソナムやイシたちと出逢ったことからチベタンに興味を持ち始めたそうだ。
「一度自分のカネでチベットを自由に旅してみたいね。それが今の一番新しい目標」
そんな青さんは、チベット難民のことを「イメージと大違い」で「貧しいどころかインド人より良い生活をしている」と評す。
「インド乞食なんか冬でもボロ切れ一枚だけで、殆ど裸みたいな恰好でいるもんね」
「ええ、それで時々凍死したり、逆に雨期前なんか熱すぎて道端で干涸びてたり…」
「あれ紛らわしいよね、屍体なのか眠てるのか。でもチベタンでそこまで見窄らしいのはいないでしょ。だいたいチベタンで裸足はいないし、ソナムなんてスウォッチだもんね」
確かに「可哀想なチベット難民」は世界中から援助され、その結果、インド庶民より比較的恵まれた生活を送っている。いくら彼ら自身の努力があったとしても、ゲームボーイでテトリスしているようなチベタンは、もはや貧しく悲惨な難民ではない。青さんは言う、「本物のチベット難民は、寧ろチベットに取り残されて逃げ出せないままでいるチベタンの方じゃないかな」
青さんの知り合いにはダライラマと懇意のカメラマンがいて、常々ダライラマに「チベットのガンジー」になって自ら庶民の中に飛び込んで行くべきだと、意見しているそうだ。独立の是非や可能性はともかく、俺の乏しい知識で考えてもチベタンを取り巻く状況は非情に厳しい。特に難民としての問題は、ここに来るまで全く気づかなかったことばかりで、あ、いけね、あのおばちゃんと青年のこと思い出しちまったぞ。ほら、やっぱり、困ったもんだ。困った、コマッタ。もうFREE TIBETを無邪気に口に出来なくなった。クソっ、泣き虫のバカヤロウ!

2月20日

今日は特に何もないので、ソナムとパスカルのことを書く。
パスカルはソナムの妻で、スイス人の敬虔なキリスト教徒。一方、ソナムは仏教徒。そんな宗教の違いも含め、結婚についてとことん話し合った上で、インドの教会で二人だけの結婚式を挙げた。
しかし、二人から聞いたインドでの婚姻手続きは、かなり不愉快なものだった。市長や幹部役人から呼び出されて、ソナムは相手の国籍やカネが目当てで、パスカルは騙されて同情してるだけだと決めつけられ、結婚を考え直すよう求められた。それは偏見による誤解だといくら主張しても役人らは聞き入れず、宗教や生活などの違いを挙げて、そんな結婚が上手くゆく筈がないと断言し、しまいには愛し合ってる証拠を見せろと迫ったそうだ。ソナム曰く「彼らは嫉妬してるのさ」そこで二人は役人たちの目の前でキスをしてみせた。すると役人たちは黙ったまま書類にサインをしたそうだ。
ところで、スイスには多くのチベタンが亡命しており、幾つかチベタン村まであるらしい。チベット難民の救済活動も盛んとのことで、パスカルはその活動に参加するボランティアとしてダラムサラを訪れ、そしてソナムと出逢った。しかし、スイスやフランスではチベット問題に関わっていることを鼻にかける人は多いが、実際にインドへ来て活動したり、チベタンのことを本当に理解している人は少ないそうだ。パスカルは言う、「私も最初はピノキオの鼻をしていたわ。でも、ソナムがポキリと折っちゃったの」

2月22日

煩い朝だった。ちびラマに悪戯されて、ソム・ナムがキャーキャー騒いでいたのだ。恐らく10歳前後だろう。最初に甘い顔を見せたソム・ナムになついてはいるのだが、やんちゃぶりが凄まじく、ソム・ナムはほとほと困り果てている。たまに俺の部屋にまで騒ぎが持ち込まれたりもするが、そのおかげでソム・ナムがシッキムのローという村の出身だということが判った。
ところで、ちびラマだのガキラマだのと言っているが、正式には何と呼ぶのだろう。以前ソナムに訊いてみたところ、子供でも僧籍に在る者は全てラマと呼ぶ慣しだと答え、こう説明してくれた。在家の者は歳を重ねるに従ってどんどん罪深くなってゆくが、出家したばかりの子供の「ラマ」は、今は徳が少なくても、これから歳をとるほどに功徳が積まれてゆく。だから彼らの未来を今から敬っておくのだ。

2月23日

青さんがネパールへ発った。カトマンドゥまで長距離バス。元気やね。
朝食をとってからずっと腹の調子がおかしく、青さんから貰った薬が残っているとソナムが言うので分けてもらった。惰眠の後、軽く散歩。TDRで飲チャイ。腹部の違和感がなくなっていた。
午後、屋上に上がる。二棟先の屋上に、よく川を眺めて佇んでいるチベタンが今日もいた。ゲストハウスでは何故か外人気分が強くなるが、特に屋上で景色を眺めていると、自分が旅人であることを妙に実感する。反対にTDRでは外人であることを忘れてしまいがちで、今日もまた猫ちゃんに日本語を使ってしまった。
腹部の不快感はなくなったが、小便が黄色かった。肝炎かと思いギョッとしたが、よくよく考えてみれば薬のせいだ。間違えて風邪薬を飲んだ可能性が高く、肝炎にしては元気すぎる。風邪薬が胃腸薬の代りになるとはね。今度風邪ひいたら胃薬飲んでみるか。チベット医薬ってのも悪くない。
チベット医薬といえば、ソナムがこんなことを言っていた。すぐ治る「小さな病気」には西洋医薬の方がよく効くが、治るまで時間のかかる「大きな病気」にはチベット医薬の方が良い。なぜなら、西洋医薬には即効性があるが、きつくてケミカルだから長期間の服用は却って身体によくない。その点、チベット医薬は自然なので大丈夫だ。

2月26日

昨夜はウプハールに泊まり、午後マジュニカティラに帰った。宿に戻って先ずトイレへ。久しぶりの固まりの感触は気持ち良かった。そして早速宿代の請求。何故か28日の分まで計上してあった。
ウプハールにいたプロのギタリストによれば、今のインドは「昔」に比べると「マイルド」で「つまらん」そうだ。あまり大声で繰り返すから少し反感を持ち、「でも俺たち初心者には今でも充分面白いよねえ」と隣の日本人と陰口を交わしていたが、チベタンを「カネに汚い」と罵るに至ってカチンときた。
「難民や言うけど、インド人よりええ恰好しとるし、あいつら絶対カネ持っとるで。カトマンの広場におる土産もん屋みてみい、もう滅茶苦茶ボリよるやろ。インド人なんかまだカワイイもんやで」
よほど腹の立つことがあったのだろうか。あんなモロ観光地で買い物すれば「滅茶苦茶ボリよる」くらいは彼なら念頭にあって当然で、逆に怒る方がおかしい。要は交渉ごとなんだから納得するかしないかでしょ?「マイルド」になったインド人だって、でも最後に金を払ったのはお前なんだろ、とでも言うに違いない。
そもそも難民がカネを持っていて何が悪い?インド人の犠牲の上にチベット難民が胡座をかいている訳でもないのに、何故インド人より貧しくあらねばならんのだ?歴史的なことはよく知らないが、現在のチベット難民の生活水準が外部からの援助だけで実現できたとは思えない。彼らの豊かさの裏側には、全く気候風土の異なる土地での想像を超えた彼ら自身の頑張りと犠牲があったに違いない。そんな開拓民としての側面など思いも及ばず、またどんなに小金持でも「国籍」のない彼らの政治的不安定など考えもせず、ただ画一的なイメージとのギャップを反動的に拡大して「カネに汚い」と彼はしたり顔でいるが、とっとと「つまらん」インドから日本へ帰りやがれ!

2月28日

最近ソム・ナムは殆ど下にいるけど、これは問題が多い。ただでさえ看板がなく、レセプションもはっきりしてないのに、そのうえ担当が現場から離れていては話にならない。おかげで外来のチベタンから「オーナーはどこだ」とよく尋ねられる。俺は最古参とはいえ客だぞ。案内係ではないぞ。…(トイレ中断)…そうだったのか。今トイレに行ってきたが、三十過ぎくらいの男が宿の戸締まりをしていた。それはソム・ナムの仕事なので、彼女はどうしたのか訊くと、下の家族と一緒に暮らしており、その代わり彼女の後釜として新しく彼が雇われたのだ。新しい彼は英語が話せるので助かるが、ちょっと残念だな。

3月1日

ソナムとパスカルがパスカルの母親を連れてTDRに現われた。パスカルと母はフランス系スイス人で、ペラペーラペラペーラとフランス語でよく喋るが、フランス語の話せないソナムは黙っておとなしくしている。折角なので挨拶しに彼らのテーブルへ寄ると、パスカルの母はオレが日本人と知って「オー、ジャポン、エキスペンシウ゛」とフランス語訛りの英語を言うと、再び娘とフランス語の会話を始めた。本当に、よく喋る。思わずソナムと顔を見合わせると、彼は意味ありげに苦笑した。
宿に戻ると、階段上がり口の手前の部屋がレセプションに様変わりしていた。夕食後に覗き込むと、受付の彼が看板を作っていた。見せてもらうとシャンバラ・ゲストハウスとあり、宿の名前まで新しくなった。これでこの宿の最大の欠点が解消されたが、胸の辺りが妙にスカスカする。契約切れで出てしまったのか、今日はソム・ナムの姿がないし、ドーマも最近はあまり見かけない。タパさんも全く現われない。そういえば、かなりの長期滞在だったラマ姿の白人が、今日はTDRに大きなショルダーバック持参で現われた。イシも昨日ダラムサラへ行ってしまい、なんだか一人取り残された気分だ。が、今、小用を足しに行ってソム・ナムとばったり出くわし、ホッとした。

3月2日

ソナムが不満を漏らした。「本当は俺と結婚したがっている女がいたんだ。彼女はチベタンで、パスカルみたいに太くないし、もっと細いし、優しいし、…」なんだか穏やかでないが、このところ彼女と喧嘩ばかりしているそうだ。もう帰国したけど、恐らくパスカルの母が引き金になっているのだろう。
以前聞いた話では、パスカルの母は二人の結婚をまだ認めておらず、ソナムを胡散臭く思っているようだ。またパスカルの話では、元々アジアを蔑視しているとのことで、彼女とコンノートへ出かけたとき、道端の乞食を指さして「見なさい彼を、結婚したらアナタもこうなるのよ」と言ったらしい。「俺はパスカルと結婚したんだ。パスカルの母親とじゃない」とソナムは息巻いていたが、何れにせよ、かなりストレスが溜っている。

3月5日

よくドーマをクレイジーだと言っていた女性と、久しぶりにTDRで再会した。暫くダラムサラへ行っていたそうだが、今はニューデリーで英語を教えているらしい。
彼女が頻りに何かを気にするので振り返ると、TDRの長女がニヤニヤしてこっちを見ていた。「何か勘違いしているね」と言うと、チベタンは色恋の話が好きだからと彼女は苦笑いした。
「チベタンは、彼女みたいに、誰それと誰それが出来てるの何のと噂にして楽しんでばかりいるの。私たちのように男女がただ会話してるだけでもう恋人どうしなんだから。他に楽しみがないのよね。要するにチベタンは田舎者なの。でも私は違う。誰と誰が愛し合おうと彼らの自由だし、私には関係のないこと」アッパレ!

3月9日

ソナムとソム・ナム。区別して表記しているが、本当は同名なのだ。下のおばちゃんたちがソム・ナムを大声で呼んでいると、ソナムがよくふざけて返事をしていた。ソナムによれば、ファミリーネームによって男名か女名かが決まるそうだが、もしソナムとソム・ナムが結婚したとすれば、どうなるのだろう。もしかするとチベタンは夫婦別姓なのかな。確かめたいけど、ソナムは今日、夜行バスに乗ってダラムサラへ行ってしまった。

3月10日

ブランチに出掛けると売店も飯屋も全てクローズド。仕方なくインド人居住区へ買い物に行った帰り道、チャン屋の前でチベタンの男に呼び止められた。「友達とは会っているのか」と訊くので何のことかと思ったが、カナディアンの消息が知りたいらしい。
「一緒に」チャンを飲んだあの日の晩、カナディアンは彼のところに現われて泣きながら「ジャパニに酷いことをしてしまった」と頻りに繰り返していたそうだ。食事に出掛けたカナディアンは、酒を呑み過ぎて俺のウォークマンを店に置き忘れてしまい、急いで引き返した時には既に無くなっていたらしい。隣で黒人が座っていたと言うから、恐らくアフリカンの溜まり場No32で呑んでいたのだろう。「それ以来、姿を見ていない」と彼は本気で心配している。そんな姿を眺めながら、本来のカナディアンは好いヤツだったんだろうと、そんな気がした。
ところで、今日は何か特別な日のようで、ゴンパでも人々が祈祷していた。レセプションの彼に訊いてみると、デモの日だった。ありゃまあ見事に忘れていた。今日は*中国がチベットに初めて侵攻した日だ。

3月11日

明日は*女だけのデモがあるそうで、TDRのアマラから「ケチャを貸してやるから参加しなさい」と誘われた。女みたいだから女装すれば大丈夫とアマラから太鼓判を押されたのは、ちょっとショックだったけどオモシロそうだ。レセプションの彼にそのことを話すと、彼の妻も参加するらしい。

3月12日

ケチャは着なくてすんだが、移動から行進、集会まで、最初から最後まで同行した。
キャンプ南端で待機していたチャーター・バスの一台に乗せてもらうと、中は小学生の女の子が野放し状態で、既にお祭り騒ぎだった。バスはガンジー博物館を通り過ぎて更に南下し、公園に到着。バスから降りると、さっそく男性スタッフの誘導で女性たちは整列し、デモ行進に備えた。
先頭にはチベット国旗を掲げる恰幅のいい大柄の女性と、仏教的な模様の旗を持つ年長の小学生とが並び、その後ろに小学生、そして大人の女性たちが続く。小学生の制服は青いシャツにグレーのスカート、赤いハイソックスといった夏服だが、長袖の赤いセーターまで着ているのもいる。またフランス女性も三人参加していた。大きなスピーカーを屋根に取り付けたオート・リキシャーが数台待機し、警察が警備に当たった。
やがてデモ行進が始まる。そこで知り合ったフランス男性と行進について歩く。適当に位置取りしてリキシャが列と列との間を伴走し、天井のスピーカーに繋がったマイクで煽動役の女がシュプレヒコールすると、それに続く言葉を他の女が大声で叫びながら拳をあげる。*「ロンリー」「ダリィーラマ!」
「チャイニーズ」「ゴーホーム!」
他はヒンディー語かチベット語のようで何を言ってるのか判らないが、彼女たちは大声を張り上げ、拳を突き上げていた。
手許に地図がないので出発点もルートも判らないが、陸橋で鉄道を越え、最後は天文台の南側にある公園まで行進したのだから、かなりの距離を歩いたことになる。おまけに、まだ本格的でなくとも充分すぎる暑さの中を、ただでさえ民族衣装の正装なのに、強い直射日光に曝され続けて、大半の女は辛そうにしていた。特に後方の女たちはバテバテで、途中から声も腕も上がらず、ただ歩いていた。
ところが熱心に声を上げる女ほど疲れた様子がない。ただスピーカーから出るシュプレヒコールだけが嗄れ、掠れ、交替した声もすぐに潰れ始める。声が潰れた女たちの代わりに、男性スタッフの若者が暫くマイクを握った。彼には見覚えがある。以前チベットへの想いを熱く語った青年と一緒にいた若者だ。
先頭では、チベット国旗を持った女が汗を拭かずに黙々と旗手を務める。
野球帽を目深に被った女が大声を張り上げ続けている。ドーマをクレイジーだと言い、カナディアンのことを教えてくれた女だ。いつ悪くしたのか足を引きずるように歩いているが、だんだん疲れてゆく女たちの中にあって、ひときわ気を吐く彼女に翳りはない。気がつくと最初の位置から離れ、いつの間にか同じシュプレヒコールを彼女は繰り返していた。ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!ロンリー、ダリィーラマ!…。何かに取り憑かれたかのように、ひたすら彼女は叫んだ。

ロンリー、ダリィーラマ!

目的の公園に着くと、暫しの休憩に入る。給水車が現われると、早速みんなが水を貰いに集まった。TVカメラが更に増えて取材の準備を進め、その近くの木陰で年老いたインド人が二人座り、集会の準備をぼんやり眺めていた。そして集会が始まる。何人かの代表者が演説し、そして再びシュプレヒコールで盛り上がる。最後に中国の国旗を燃やして女たちのデモは終了した。

3月25日

随分日記をサボり、無駄に日数を費やした。その間に婆ちゃん(実はソム・ナムの叔母だった)とソム・ナムがニューデリーの叔父のホテルへ移ってしまい、また宿に忍び込んだものの見つかって逃走した泥棒に、下の家族のパラがライフルをぶっ放す騒ぎもあった。でも後は何もなく、昼近くまで惰眠を貪り、ドーマはよく笑い、猫ちゃんは俺のチャイをよく忘れ、パラは時々計算を間違えた。相も変わらずチキン・トゥクパとショーとチャイで透明な毎日が淡々と流れた。そして明日、ここを出る。

3月26日

今までの日記など持ち歩きたくないものを宿に預け、チェック・アウトした。
TDRでブランチ。余ってしまった気怠い時間に頭がぽわんとする。おかげで感傷がなくて好都合だが、出発前のちょっとした昂揚感までなくなり、物足りない。目の前の巨大なザックだけが、久しぶりの出番に昂奮してパンパンに膨れている。
時間が迫り、みんなに挨拶をして、いつもの19ルピーにお代わりのチャイ代を足した21ルピーを猫ちゃんに支払う。そこへパラがやって来て握手しながら言った。
「いつ帰ってくる?」
「うーん、雨期が終わった頃かな。ヒマラヤを一周したら帰ります」
「その時は必ずうちへ来るんだよ」
「もちろん!チキン・トゥクパを食べに」
「ショーとチャイもね」と猫ちゃんが付け足した。
「タシデレ」と言って右手に少し力を込める。パラの手は大きく、分厚かった。
店の入り口の扉を開けて外に出て振り返り、手を振りながら扉を閉めた。外は明るく、眩しかった。

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続き…☞

足跡

※パニ

水を意味するヒンディー語。この場面では市販のミネラルウォーターのことで、料金は部屋代と一緒に清算していた。本文に戻る☝

※トゥクパ

チベット文字:ཐུག་པ་; ワイリー方式:thug pa, Thukpa
日本のうどんに似たチベットの麺料理。一般に汁は塩味で、少しの野菜と、時にマトンやヤクの肉が加えられる。麺は伝統的に小麦粉の手延べであるが、現地ではパスタを用いてもトゥクパと称される。
小麦粉は貴重なため、日常食というよりはハレの日などの特別食で、古い時代に中国から伝わったとされる。麺がひも状でなく、すいとんの様にしたものもトゥクパと呼ばれることがあるが、多くの場合スキューと呼ばれる。( より抜粋、再編集)本文に戻る☝

※ハウス・ナンバー

建物の壁にペンキで書かれていた番号で、おそらくインドにおける番地みたいなものではなかろうか。このレストランには看板がないので、とりあえずこう呼んでいた。本文に戻る☝

※パラ

チベット語で「父」もしくは「年上の男性」のこと。母または年上の女性は「アマ(ラ)」。「ラ」は敬称。本文に戻る☝

※モモ

チベット風餃子。フライとスチームの二種類あり、いわゆる焼きはコティと言っていた。ネパールにもシュウマイ型のモモがある。本文に戻る☝

※カトマンドゥ

ネパールの首都カトマンズ。カタカナ表記で現地の発音にこだわるなんてナンセンスだけど、よく口にするから自然と表記もこうなってしまう。本文に戻る☝

※嫌がらせ

役人の嫌がらせ以外にも、地元インド人との揉め事もある。これはある日本人旅行者から聞いた話で、1994年5月、ダラムサラのマクロードガンジ(チベット人地区)をインド人が大挙して襲撃したそうだ。原因は、チベタンの若者が酒の席でインド人と口論になり、カッとなってナイフで刺してしまったから。刺されたインド人は死んでしまい、怒った同じ村のインド人たちが翌朝報復したのだった。本文に戻る☝

※中国がチベットに初めて侵攻した日

これは私の勘違い。本当は1959年にラサ市民が武装決起した日。この日、中国駐留軍の譚冠三(タンクワンサン)将軍が中国軍兵営内で催す演劇にダライラマを招待していた。しかし、これを知った民衆がダライラマを守るべくノルブリンカ(夏の離宮)を取り囲み、ダライラマの出席を阻止したのだ。結果的にこれが引き金となり、一週間後の17日にダライラマはラサから最後の脱出をした。ちなみに中国人民解放軍の最初のチベット侵攻は1950年10月7日のカム(東チベット)侵入。本文に戻る☝

※女だけのデモ

当日もらったビラによると、1959年3月12日にラサで数千人のチベタン女性がポタラ前に集まり、中国のチベット不法占拠に対する抗議集会を開いた。それを記念して毎年この日に女性だけでデモをするようになった。本文に戻る☝

※「ロンリー」「ダリィーラマ!」

これは当時の日記に従っています。もちろん「ロング・リヴ」だと思いますが、それは後年日本でデモに参加して知ったこと。この時は、この「ロンリー」に世界の中で取り残されたチベット人の気持ちが込められているような気がした。その思いを一身に背負う「ダリィーラマ」。ダライ・ラマの本質は、ただ一人の法王猊下にあるのではなく、一人一人のチベット人の心に在るのだ。本文に戻る☝

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